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I.P. and Misc. 投稿

「自分理念2.0」作成中…

今日は午前中に英検準1級のペーパーテストを受けて、午後はとある本を素材にジャーナリングタイム。先週、必要性を痛感した自分のビジョン、バリュー、ミッション、パーパスを探して自分との対話をしています。本当は1週間で仕上げたかったけど、もう少し時間がかかりそう。でも、自分の中で色々なことが繋がりつつあり、手応えを感じています。

あまり本に書き込みはしない派だけど、この本には書き込みたい気持ちを抑えることができなかった。筆者の経験とそれをベースにした伝えたい思いがひしひしと伝わってくるし、読者への問いかけも挑戦的で、思いついたことを直ちに書き込まないともったいない気がしてしまう。さて、この本のタイトル、著者はわかりますか?(微クイズ)

あと、英語をよく使うところに異動したので、密かに英検1級プロジェクトを準備していたのに、次回の英検の日が九十九里トライアスロンと丸かぶりという残念な結果に…。年に3回しか受験の機会がないのってどうなん?まあ、英語は試験より仕事で頑張れということなのかな。

初めて江古田に行ったんだけど、とてもいい街だった!

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傍聴人

今週は、知財業界に身を置く人にとっては話題の多い週だった。金曜日には、新特許法により導入された第三者意見募集制度も使われた知財高裁特別部の大合議判決(コメント配信システム事件)がされた。土曜日には、「メタバースにおける著作権」をテーマとした著作権法学会の研究大会が4年ぶりに一橋記念講堂(対面・オンライン併用)で行われた。今週の出来事ではないが、アンディ・ウォーホルの作品に関するアメリカ連邦最高裁の判断もあった。そんな感じで、知財関係のいろんな人が、いろんな見解を述べているのをオンライン、オフラインを問わずに見聞きすることができた。

それで、いま自分が端的に感じているのは、「くやしい。」ということだ。まだこの職場に来て2か月しか経っていないから、当たり前といえば当たり前なのだが、自分は、これらのすべての動きについて全部「傍聴人」にすぎなかったわけだ。自分がその中で何かの役割を担っているわけではないし、議論に混じることもできない。意見を表出できるほど学んでいないし、考え抜いてもいない。そして、胆力が違う。大合議に関わった実務家(裁判官、弁護士、意見募集に応じて意見を提出した方々)や、学会に登壇した方々(今回は実務が大きく関わるトピックだったので、研究者のほか、事業会社や弁護士からの登壇者があった。)を間近で見たのに、みんな、自分とははるか遠くにいるような気がした。広い意味では同じ業界に身を置いているのに、視点の高さがまるで違うと感じた。

なぜこのような違いが生まれるのか。所属している組織、ポジションが違うのはもちろんあるけど、いろいろ考えた結果、結局は「コミットする意識」の違いにあるのではないか、と感じた。事業、法的アドバイス、自説、判断と形の違いはあれど、自分の名前と責任において成果物を出すという意識、その目的に従った学び、準備といった姿勢が、自分にはまだ全く足りない。いまはただの「知財ファン」であり、「プロ」はおろか、「オタク」「マニア」の領域にも達していないということだ。

この2か月間、必死に仕事に食らいついてきたつもりだったが、ひとつひとつの動きやインプット・アウトプットがクリティカルであったかと問われると、はなはだ心許ない。そもそも何との関係でクリティカルである必要があるのか、自分の目的、目指すべきところの解像度が低すぎる。そのせいで、せっかくたくさん流れてくるありがたい情報は右から左に抜けていく。目標らしきものは設定されるが、それが全体との中でどのように位置付けられるのかの認識が甘いので、ただその目標を「こなす」ことが最優先となり、成果としての「すごみ」に乏しいものとなる。これを打破するには、目の前のタスクの処理に追いまくられている状態から一旦離脱して、自分のミッション、ビジョン、バリュー、パーパスを深掘りすることが必要で、自分は、まさにいま、その時にあるということだ。

「この職場でできることは全てやり遂げる。」これが現在の自分を支えている指針だけど、今日から、これをもっと分析して、展開して、具体的に落としこんでいく。これからの数週間は、そのための学びを深めていくつもりだ。

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マインドフルネスを学び直す。「サーチ・インサイド・ユアセルフ」

横浜トライアスロンでは、スイムで顔をクラゲに刺されたのと、バイクで一周終えた時にGARMINをチラ見し、縁石に突っ込んで左腕をガードレールで擦りむいた。そして、レース翌日だったかにストレッチしていたら、ピキッといって肋骨周辺の筋肉を痛めてしまった。そんなわけで、レースが終わって、しばらくトレーニングができなくなってしまった。

それから、レース後に仕事に復帰したら、身体が疲れていたせいか、しょうもないミスを連発してしまった。また、ちょっとしたトラブルもいくつかあった。今日も、ボールペンをシャツに入れたまま洗濯してしまい、新しく買ったシャツにシミをたくさん作ってしまった。

こんな感じで、今週の自分は、けっこう精神的にユウウツだった。そうだったので、別の本を読んでいたのだけれど、方針転換して、チャディー・メン・タンの言わずと知れた「サーチ・インサイド・ユアセルフ」を棚の奥の方から引っ張り出してきた。この機会を利用してマインドフルネス瞑想を習得してしまおうと思ったのだ。

まずは意図を設定する。ストレスから自分を解放したい。ゆっくりと呼吸に注意を向ける。深呼吸する。身体の力が抜けていく。すぐに邪念が入り込んでくる。肩が上がり、体がこわばっていくのに気付く。肩をスッと下げてまた深呼吸をする。浮かんでくる自分の感情を遠くから俯瞰することができてくる。ここまでは平常運転、去年までも(例えば特定のお部屋に入る前の2分間を使うなどして)毎日行っていた。

改めて読み返してみると、本当に前回読んだのだろうかと思うような発見がたくさんある。以前読んだ時は、自分の心の平穏をもたらす方法のみを求めていたのだろうか。他者にマインドフルネスを向けるという感覚は全く自分の中になかった。「善良さ」を発見し、増やし、届けることができるという自信を育むという考えも、自分の中ではマインドフルネスとは結びついていなかった。

確かに、ストレスを持ち込んでくるあんな人やこんな人も、自分と全く同じで、体と心を持っていて、気持ちや情動、考えを持っていて、これまで、悲しみや落胆、怒ったり傷ついたりうろたえたりしただろう。身体的にも精神的にも、痛みや苦しみを味わってきただろう。痛みや苦しみから解放されたい、健康で人に愛され、充実した人間関係を持ちたい、幸せになりたいと願っているだろう。そうイメージすることができると、考え方も、見えるものも違ってくる。

善良さが滲み出ているような人は確かにいて、信頼できる。じゃあ自分がそうなれるのかというと、まだ分からない。考えてみたこともなかったからだ。でも、できるような気もする。信頼の相互作用が生み出す心地よさを、自分は何度も経験しているからだ。そして、その心地よさを知っているからこそ、今までの自分を変えて、信頼される人になりたいと思った。自分と人とを信頼できるように、その基本動作であるところの自己認識、マインドフルネスを日常に組み入れていきたい。

自己認識とは……情動の嵐のただなかにあってさえ、自己省察を維持できる、偏りのないモードのことだ。

ダニエル・ゴールマン

マインドフルネスとは、特別な形で注意を払うことを意味する。それは、意図的に、今の瞬間に、評価や判断とは無縁に、注意を払うことだ。

ジョン・ガバットジン

明日からも情動の嵐に晒されるだろう。不安はあるが、本を読み終えて自信が湧いた。自分は、情動の嵐とともに在り、何回か気は散るだろうが、最終的にはゆっくりと情動を手放す。そして、またひとり、大切な人と心を通わせることができるはずだ。

はやく身体が痛いの治って欲しいなー。

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Yokohama 2023

楽しかったけど、課題がたくさん見つかったので、明日からまた練習だね。

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脳を解放する。「超ミニマル主義」&「睡眠こそ最強の解決策である」

レースに出ている。なぜかマンハッタンの空中、曲がりくねった道を走っている。矢印が出て、次は壁の穴に潜れという指示だ。こんなのおかしい、別の道のはずだ!と思いコースを外れる。審判員が「失格です」という。「ですよね」と言ってガーミンを止めた。

これは今週見た「夢」の内容だ。実に後味の悪い寝起きとなった。横浜国際トライアスロンのレースを翌週末に控えているのと、ついこの前「スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー」を観た影響によりこうなっている。

だが問題はそこではない。最近、睡眠の質がとても悪い。それなりの時間を確保しているのに、中途覚醒したり、妙な夢を見て目が覚めたりで、起きた後も全身がぐったりと疲れている。もともと睡眠時無呼吸症候群を患っていて、CPAP治療をしている。寝つきが悪いのでいわゆる「眠剤」も服用している。その状態で、この3月までは順調に睡眠でき、朝はスッキリと目覚めて問題なかったのだ。

つまりこの「睡眠の質の低下」の原因はハッキリしている。「ストレス」である。

さて、このブログを始めて毎週更新することを目指していたが、ついに先週、更新を途絶えさせてしまった。なぜだろうか。それはこの間に読んだ本からの学びを、自分の中にインストールするに至らなかったからである。読んだ本は2冊で、マシュー・ウォーカー「睡眠こそ最強の解決策である」と、四角大輔さんの「超ミニマル主義」である。

どちらも、書いてあることはシンプルだ。人類が、進化の過程で「睡眠」を手放さなかったのは、それこそが人を人たらしめる知識と創造力の源泉だからだ。だから睡眠を削って働くなどナンセンスというほかなく、生活そのものを、十分な時間、良質な睡眠を得るために設計し直す必要がある。そして、働くこと、生きることをより幸せにし、充実させるためには、聖域を作ることなく、無駄なものを徹底的に削ぎ落として、本当に必要なものに全てのリソースを投入するように自分の在り方を変えていく必要がある。そういうことだ。

先週の時点で文字にできなかった理由はこうだ。4月から1か月間の自分の生活は、上記の在り方とは全く逆だった。訳の分からないしきたりがある。誰もそれを打ち壊そうとしない。そういうものだと諦める。その訳の分からないもののために意味のない作業をする。意味のあること、自分がしたいと思うことをする時間がなくなる。午後5時を過ぎても残らなくてはならなくなる。充実感を持てないまま、前に進んでいるという感覚を掴めないまま帰る。責任の重さが背中にのしかかってくる。時間に追われている。明日は早く起きて早く出社し、作業のための時間を確保しようか。しかし、起きられない。起きても疲労感が抜けていない。体が重い。レース間近なのに練習の時間も確保できない。胃が痛い。この状態のまま、ゴールデンウィークに突入した。さあ、君にとって「睡眠こそ最強の解決策である」。

無理というものだ。睡眠が大切だなんて痛いほどわかっている。記憶力も高まる、健康にもなる、創造力が磨かれる。それはそうなんでしょうね。でもこっちは新しい環境と自分の精神とが不協和音を起こして、脳の中で真夜中もゴチャゴチャごちゃごちゃやっている。いくら午後9時にベッドに入って午前7時に起きることとしても音が止むことがないのだ。

というわけで、こんな状態では到底本から学びを得たとはいえなかったので、先週は何も書けなかった。

そして連休後半を迎えた。休日出勤はしないことにした。自分自身をアップデートするためだ。

ミニマリストになるわけではない。でも、自分も、四角大輔さんが教えてくれたように、スケジュールとタスクを軽量化し、思考と習慣を軽量化すると決めた。ただ漫然と作業をするのは止める。本当にやるべきことは最大限集中力を研ぎ澄ませて終わらせる。意味の無いことはしない。やると決めたことは心血を注いでやり切る。無駄な残業はしない。ベッドに入る前にストレスから脳を解放する。そして、「最強の解決策」であるところの睡眠を死守する。もう、そうすることに決めた。

月曜日から現実が待っている。「機能不全を起こしている職場の常識」を、すぐに捨て去ることなどできないだろう。でも、自分は、納得できないことをするためにここに来たのではないはずだ。自由に楽しく、価値ある仕事をする。周りもその楽しさに巻き込んでいく。今日もいい仕事ができたと実感しながら眠りにつき、ワクワクするような朝を迎える。きっとできるはずだ。

週末のレースに向けて、バイクメンテしてきました。サーヴェロさん今回も頼りにしてる!

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伸びしろしかない。「マインドセット『やればできる!』の研究」

毎朝、一日がスタートするとき、自分にこう問いかけよう(紙に書いて鏡に貼っておくとよい)。「今日は、私にとって、周囲の人にとって、どんな学習と成長のチャンスがあるだろうか?」(p345)

「伸びしろがあるね。」

トライアスロンのコーチや練習をする人は、自分や誰かが現在できないこと、すなわち課題があることについて、それを「伸びしろ」と表現する人が多い。つまり、現在その人ができないことは、これから練習することによって、克服することができる、ということをその単語に込めているのだ。初心者である自分は、「伸びしろがたくさんあってうらやましい!」と言われたことすらある。

無謬であることを求められ続ける仕事をしてきた自分にとって、課題を「伸びしろ」と表現してそこに成長の機会を見出していくこの考え方は新鮮だった。失敗はあってはならないもの、取り除かねばならないもの、起こることが無いように事前に最大限の警戒を要するもの。ちょっと大袈裟に言うと自分の職場はこういう考え方だ。多くの人が失敗を恐れ、肩を縮こませているようにすら見える。

キャロル・S・デュエック「マインドセット『やればできる!』の研究」を読んだ。人の能力・資質は石板に刻まれたように固定的で変わらないと信じる考え方(=硬直マインドセット、Fixed Mindset)と、人の基本的資質は努力次第で伸ばすことができると信じる考え方(しなやかマインドセット、Growth Mindset)の二種類の考え方があると書いてあった。そして、硬直マインドセットに囚われていると、絶えず自分の能力を証明せずにはいられない、一つの失敗の事実が、自分が失敗者であるというアイデンティティになってしまうという。他方、しなやかマインドセットであれば、失敗を機会と捉えて奮起し、教訓を得て更に成長を続けていけるという。

半年ぐらい前、仕事でちょっとした失敗をしたことがあった。その時自分は、どうしようもないぐらい落ち込んだ。これで評価も落ちた、やっぱりこの仕事には向いていないんだ、資格がない、自分に向いている別の仕事を探さなくては、などなど。今考えるとおかしな話だが、硬直マインドセットそのものだった。また、自分の職場では、「〇〇さんは優秀だ」といった表現がされることもよくある。これもある意味、硬直マインドセットの現れであると思う。その人がどのような努力をしてきたかを想像せずに「仕事が(生来的に)できる人」という意味合いが込められており、自分はそのようにはなれないといった卑屈さや嫉妬、諦観などが見え隠れするように思われるからである。

客観的にみると、トライアスロンのコーチが言うように、自分にも伸びしろが実際にあって、一生懸命練習をすることにより確実に成長してきた。仕事や学習、人間関係だって同じはずだ。自分にも、この組織にも、家族にも、誰にでも伸びしろがたくさんある。事実を直視する勇気と、それを機会と捉えるマインドセットと、努力を継続できる根気。これを回し続ける情熱が伝播していけば、自分も周りもどんどん成長を続けられるはずだ。

優劣や善悪の判断をくだすのはやめて、教え導いていこう。今まさに学んでいる最中なのだから。(p271)

(追記)先週、代官山蔦屋書店で行われた孫泰蔵さんの「冒険の書」刊行記念トークイベントに参加してきました。泰蔵さんは、「学生の頃から数え切れない程失敗してきた。失敗の数なら誰にも負けない。それが今の自分の自信につながっている。マーク・ザッカーバーグやジェフ・ベソスとも、その自信があったから対等に話すことができた。」とおっしゃっていました。

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レジリエンスは育てられる。「運動脳」

念願だった職場に異動となって最初の2週間が経過した。が、今の心境を隠すことなく言うとするなら、「重圧に押しつぶされそう」といったところだ。

変化には当然伴うことだとは分かってはいる。でも、仕事の進め方が違う、人間関係が違う、求められているものが違う、といった調子で心と身体が追いついていかない。やるべきことがあまりにも多過ぎて、そしてそれがうまくできないので自信を無くしていく。常に時間に追われて焦燥感に駆られる。早起きしてなるべく朝に仕事をしようとするが、疲弊していて起きられない。

このままでは絶対にやられると思った。ので、ある日の夜、仕事を全部放り出してランの練習会に行った。そこで1時間強、頭を空にしてひたすら走った。GARMINがパフォーマンスコンディション「+6」(初めて見た数字だ。)を出してくれるぐらいに気持ちよく、飛ぶように走れた。感じたことのないような高揚感を得た。次の日の朝の気分も最高で、いくらでも仕事ができるような気分で一日を過ごすことができた。

以前、オリンピアンの関根明子さんから、アンデシュ・ハンセンの「運動脳」を読むべきだと勧められていて、だいぶ前に買ってはいたものの積読になっていた。今こそ読むべき時だと思った。脳は、継続的な運動によって物理的に変化させていくことができ、それにより、ストレス耐性、集中力、記憶力、創造力などを高めていくことができるということだった。

自分の脳が物理的にどのように変化したかを確認できないから、実際のところは分からない。でも、これが正しいことを自分は知っている。継続的にトレーニングしてきたことにより、レジリエンスは確かに高まっていた。長時間、集中を切らさずに仕事ができるようにもなっていた。先週はリフレクションについて考えたが、習慣的な運動による脳の成長と、リフレクションを通じたメタ認知からの行動の変容の組み合わせは、車の両輪のように、自分を支え、前に進む推進力をくれる。必ずしも爆発的なものではないが、静かに、芯の通った、着実なエネルギーとして蓄積されていく。知らないうちに、こんなに強力なツールを手に入れていたのだ。

さて、もう一度今の心境を言うと、「重圧に押しつぶされそう」なのである。だから、明日は朝からトレーニングをして、何だかよく分からないけど脳の特定の部分を育てて、その重圧と「共にある」ことを選択して、この機会を活かしてより前へ、その一歩を踏み出すつもりだ。

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内省が持つ確かな力。「リフレクション」

熊平美香「リフレクション 自分とチームの成長を加速させる内省の技術」を読んだ。いつもながら荒木博行さんのBookCafeの対談放送で熊平さんの存在を知った。「認知の4点セット」(意見・経験・感情・価値観)を基礎に、リフレクションの基本的な5メソッド(自分を知る、ビジョンを形成する、経験から学ぶ、多様な世界から学ぶ、アンラーンする)を紹介し、これらをリーダーシップの強化、自律型学習者の育成、組織づくりへと応用させていく方法について詳しく説明されている。

自分の経験上、内省が有効であることに疑いようはないが、普段メモ書きをしている時も、「今日は何から書こうか…」などと逡巡することも少なくない。認知の4点セットの枠組みで、また、基本的な5メソッドの切り口で内省を始めることは効率が良く、かつ、テーマや的確な問いを用意してくれているので効果的でもある。毎日の内省の他にも、今後訪れるであろう色々な転機のときに行う内省にきっと役立つと思う。

さっそく「自己変容のためのアンラーン」を試してみた。もっと深掘りできそうだけれども、とりあえずその成果を以下に書いてみた。これで初めて気付いたことは、自分は、予想外のことにペースを乱されることを嫌っていて、そのために自分が犠牲になっているような感情を持っていたということだった。しかし、明日からは、予想外のことは必ず起きることを前提に、これを成長のための機会と捉えて、自分から積極的にペースを変えていくことにした。

【STEP1 改善目標のテーマを選ぶ】○改善目標のテーマは何ですか?→「何かを犠牲にすることなく、家族の幸せ、仕事での成果、心身の健康、新たな学びを同時に成し遂げたい。」○改善目標について、どのような経験がありますか?→「トライアスロンの練習やこれに伴う出会いから、外に出て新しいものに触れることで、自分の幅が広がり、人生が充実して、仕事にも良い影響があった。念願の仕事ができるようになったが、5年前までは、仕事が第1順位に来ていて、家族や、仕事以外からの学びをおろそかにして、家族を苦しめたし、職業人としても未熟だったと思う。」○その経験には、どのような感情が紐づいていますか?→「(新しい発見、学びへの)喜び、(家族を犠牲にしたことへの)罪悪感、悲しみ、(仕事がうまく行ったことの)嬉しさ。」○そこから見えてくる、あなたが大切にしている価値観は何ですか?→「信頼、愛情、視野の広がり、交友関係、良質な仕事、バランス、努力。」

【STEP2 改善目標を決めるために、改善前の行動と恐れの感情を洗い出す】○改善前の行動は、どのようなものでしたか?→「朝、ゆっくり出勤し、何となくダラダラと深夜まで残業していた。その間、集中が続かずダラダラしていた。子どもが自分を必要としていると気づいているのにスルーした。SOSサインが出ていることを認識しながら積極的に介入せず、押し黙った。」○改善前の行動に基づく恐れの感情は、どのようなものですか?→「完璧なものを提供できないために失望されるのではないかとの不安、調べきっていない、考えきっていないのではないかとの不安、目の前の課題に対処することにより十分に休息が取れず、自分が疲弊してしまうのではないかとの不安、全てのことを完璧にしたいのに時間がないという焦燥感、自分の計画を乱されることへの怒り、不快感。」

【STEP3 感情の背景にある価値観を掘り下げる】○何を大切にしているから、その感情になったのでしょうか?感情に紐づく価値観を洗い出してみましょう。→「調べ抜き、考え抜かれた上での質の高い成果、規則正しく規律ある生活のリズム、健康、精神の余裕、自己肯定感。」○その価値観は、どのような経験によって形成されたのでしょうか?→「特定の分野で結果を残した人として評価されたこと、生活のリズムを整え、計画的に行動したことにより目標を達成したこと。」○その価値観が人生の助けになるのは、どのようなときですか?→「質の高いアウトプットが求められているとき、ステークホルダーからの期待値が高いとき、タスクが予測可能なとき。」○その価値観が人生を難しくするのは、どのようなときですか?→「突発的に予想できなかったトラブル等が発生したときに、対応に追われ、自分のリズムが乱され、台無しにされたように感じる。」

【STEP4 自己変容のビジョンを明確にする】○自分自身の何を変えたいですか?→「やりたいこと、やるべきことが多く、また、突発的なトラブルが起きたときも、心の平穏を保ち、質を損なわないまま、対応できるようになりたい。」○改善目標に取り組むと、どんなよいことがあるのでしょうか?あなたは何を手に入れるために、自己変容にチャレンジするのですか?→「家族が自分を必要とするときにそこにいることができ、かつ、仕事でもしっかりと成果を上げることができる。自分が何かの犠牲になっているという感覚から解放され、その時間をとても大切なものと感じることができるようになる。」

【STEP5 アクションプランを考える】○まず、何に取り組みますか?→「次に突発的なことが起きて自分が必要とされたときに、これを好機ととらえて、積極的に予定を変更してその機会に応じる。」○最初のステップにおける成功の評価軸は何ですか?→「ニーズに応えた相手がハッピーと感じているか。自分が犠牲になったとの『被害者感情』を脇に置けるか。」○いつ、最初のステップのリフレクションを行いますか?→「1週間後、次のブログを書くときに、メモを作る。」○どのような自己変容が起きることが、最終ゴールでしょうか?→「短期、中長期で達成目標を掲げ、日々の予定を考えつつも、状況、周りのニーズに応じて柔軟に対応し、かつ、それをポジティブにとらえて成長の源泉にできるようになる。」

スヌーピーのフラペチーノと一緒に内省しました。

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自由の基盤となるか?「ベーシック・インカム」

とある県の小さな市に、2週間に1日だけ訪問して仕事をする、ということをしていた。そのときに目の当たりにしたのが、小さな子を抱えた若い親を襲う厳しい貧困だった。配偶者の実家との関係が悪かったり、配偶者からの暴力を受けたりしても、自分と子どもとの生活を守るためにまずは耐えなくてはならない。どうしても耐えきれなくなって離婚することになれば、片親で孤独な育児を余儀なくされる。元配偶者の収入も必ずしも高いわけではないから、養育費の支払をまともに受けることもできない。ワンオペで家事や育児を行わなければならず、生活保護を受けることは、社会から失格者の烙印を押されるようで気が引けてしまう。過疎化した地域の中で、仕事も多くあるわけではなく、きつい不本意な仕事でも続けざるをえない。

「人は生まれながらにして自由であり、自らの努力により、未来を切り拓いていける」と、何の不自由もなく子どもの頃を生きた自分が話したとしても、来月の生活がどうなるかすら分からない、という現実の前では、あまりにも空虚である。

図書館で偶然見つけたフィリップ・ヴァン・パリース=ヤニック・ヴァンデルポルト「ベーシック・インカム〜自由な社会と健全な経済のためのラディカルな提案〜」を読んだ。本書で定義されている無条件ベーシック・インカムは、①世帯の状況とは関係なく、完全に個人として受給資格が与えられる、②収入や資力の調査を必要としない普遍的(ユニバーサル)なものである、③対価として労働をしたり、就労の意思を証明したりする必要のない、義務を課さないという3つの意味において無条件で現金給付をする仕組みをいうようだ。

現物給付より現金給付が望ましいのは、「現金給付の受給者にはお金をどのように使うかの自由が与えらえ、ささやかな予算のなかでもとりうる多様な選択肢を個人の好みで選べるから」である。世帯単位ではなく個人単位で給付すべきなのは、世帯内部での権力の配分に影響し、また、給付を受けるために同居を回避するなどの事態を防ぐことができるからである。普遍的(収入や資力の調査を必要としない)であるべきなのは、複雑な手続きを廃すると共に、受給者に汚名を着せないためであり、失業の罠(給付金受給資格の喪失を恐れ、また就業の不確実さを恐れ、失業状態にとどまろうとする。貧困世帯が自力で稼いだ分だけ、給付金が必然的に返還されてしまう。)から解放するためである。義務を課すべきでないのは、雇用の罠(給付金を貰い続けたいなら職にとどまらざるを得ない労働者に対して、雇用者はより低い賃金を支払って済ませてしまう。)から解放するためである。このような無条件のベーシック・インカムが整備されることによって、単に失業者、貧困層を労働力として採用することができるだけではなく、どんな人でも、フルタイムの現在の職業にとらわれることなく、さらなるスキル等習得のための訓練、ボランティア活動、育児、余暇などのために、職業から一時的に離脱することが可能となるという。

理想的なように思える。子どもが学校に行きたくないと言ったときに自分がそれをなかなか受け入れられなかったのは、学校に行かずに大学に入らないことで、この能力主義の社会から取り残され、二度と這い上がることができなくなってしまうのではないかという恐怖があったと思う。全ての人にベーシック・インカムが保障されれば、良い会社に入るために受験勉強に励む小学生も、ブラック企業を辞められない会社員も、子どもが親に家にいて欲しいと思う時に出勤しなければならない親も、とにかく就職活動に有利になるために大学生活を設計しなくてはならない学生も、今のキャリアが時代遅れになっていることに勘づいていながらも住宅ローンがあるからキャリアチェンジができない人も、その時点で優先順位の最も高い活動を選択することができるようになりそうである。もちろん、冒頭で書いたような貧困に苦しむ若い親を救い出すことにもなるだろう。

しかし、この本を読んでも、この無条件ベーシック・インカムが実現することはないのではないかと思った。努力・労働への信仰は根深いし(成功者が1か月海外旅行に行くのは当然であるが、生活保護受給者が近所で遊んでいるのは許されないようだ。)、公金を富める者のために使うことへの抵抗感も強い(高等学校の就学支援金にすら所得制限があり、夫婦共働きであれば支援を受けられる可能性は低い。)。日本の場合は、この本が「裏口」と呼ぶ、別の形から「ベーシック・インカム的なもの」を導入し、それを徐々に発展させていくというのが現実的だと思う。児童手当の所得制限が撤廃されそうだが、これはその方向性に沿っていると思う。

「人生は無理ゲー」という人が見る現実に、自分はどうしたらいいか答えが出ていない。せめて自分の子どもたちには、自由に好きなことをさせてあげたいが、それは、自分が子どもたちを長く養い続けることが前提となってくる。本当にそれが可能なのかも分からない。分からないまま、とにかく身体を健康に保って、しっかりと仕事をして、大丈夫だよ、という顔をしながら今日を過ごしているのだ。

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泥臭くリアルな学びの旅「独学の地図」

毎日「book cafe」でたくさんの気づきを与えてくれる荒木博行さんの「独学の地図」が発売されたので、さっそく読んでみた。

「それっぽい一般論」は、私たちの本来の学びに蓋をしてしまうのです。私たちが本気で学ぼうとするのであれば、すぐに忘れ去られてしまうような「それっぽい一般論」をそのまま放置してはなりません。そういうきれいな言葉を排除して、知的な負荷をかけながら、裏側に隠れている「経験の前後の差分」を削り出していかなくてはならないのです。(63p)

学びとは「差分」である。そしてそれは、見てくれの良い成果ではなく、その学びの前後の経験に照らして「削り出される2ミリ」であり、キャッチーなもの、聞こえの良いものではなく、自分だけの経験であるから無骨な形になる。差分を削り出すには、アウトプットをしてみて、そのアウトプットに「それっぽい一般論」がないかをチェックし、これを自分だけの具体論に変換する。それは、今この瞬間の自分しか語ることのできない具体論である。このようにして学びを発見することが成長である。

自分は、この1年ほどでたくさんの刺激を受け、考え、自分の領域・コンフォートゾーンから出ようと思った。その試みの一つとしてブログを始め、とにかく1週間に1回は更新することにした。ただ、ブログに書いてきたことは「それっぽい一般論」しか書いていなかったと思う。いや、その時に感じたことはそのまま書いたし、特に本のレビューブログを目指しているわけでもないので無難な表現とかに落ち着かせようと思ったことはなかった。ただ、刺激を受けて自分に起こっていることを表現するにあたって、その解像度をより高めていく、という発想がなかった。例えば「冒険の書」を読んだ時には身体が熱くなったが、あの時自分に一体何が起こっていたのか。自分はコンフォートゾーンから飛び出したいと考えていた。そして、身体が熱くなったのは、私はそれを実現することができる、今この瞬間から、自分の心の枷は取り払うことができると確信を持てたからであり、そうして自由になった心で毎日、仕事や、トライアスロンの練習や、読書や、遊びを楽しんでいる姿を二人の子に見て欲しい、二人とも自由に生きていいというメッセージを自分の生き方を通じて伝えたい、という強い気持ちが溢れ出てきたからだと思う。

まだ不十分かもしれないが、自分だけの学びを削り出すという頭の働かせ方をしてみた。いま、他にもいくつかの本を読んでいて、気づいたことをメモしたりしているけれども、ここから更に「削り出していく」頭の使い方をしたいと思えた。また、学びは本とか授業とかからのみされるものではなく、明日オフィスで作ることを想定している書類の作成作業からも、2ミリの学びを削り出してやろうと思えた。

学びをビジュアライズする「ラーニングパレット」の考え方は、自分が感じている閉塞感の正体を探り、これを打開する手がかりになりそうである。今日現在のラーニングパレットを仮に作るのであれば、「基本カラー」は過去の事実の判断者であり、その対局にあるのは未来、当事者ということになる。そして、サッと中身について思いつくところを入れてみると、「判断者/過去」には「規範、証拠、評価」、「当事者/過去」には「成果、伝統」、「判断者/未来」には「兆候、調整、意思決定」、「当事者/未来」には「理想、意思、実行」などが仮に入った。粗々ではあるが、「未来について『自分事』として考え、実行する」ことへの憧れが自分の中にあるように思えた。もちろん、仕事の内容が少し変わる4月からは、「判断者/過去」の領域の学びの解像度を高めていくこと(深化型学習)がしばらく必要となり、忙殺されるかもしれない。ラーニングパレットのアップデートは、また少し走ってから行うこととしたい。

この本は、なんとなく「学び」について感じていた違和感(読書それ自体が目的化していないか、「学び」そのものが消費の対象になっているのではないか)に答えてくれた。「学びを削り出す」という考え方がとても刺さった。

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