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カテゴリー: 読書

伸びしろしかない。「マインドセット『やればできる!』の研究」

毎朝、一日がスタートするとき、自分にこう問いかけよう(紙に書いて鏡に貼っておくとよい)。「今日は、私にとって、周囲の人にとって、どんな学習と成長のチャンスがあるだろうか?」(p345)

「伸びしろがあるね。」

トライアスロンのコーチや練習をする人は、自分や誰かが現在できないこと、すなわち課題があることについて、それを「伸びしろ」と表現する人が多い。つまり、現在その人ができないことは、これから練習することによって、克服することができる、ということをその単語に込めているのだ。初心者である自分は、「伸びしろがたくさんあってうらやましい!」と言われたことすらある。

無謬であることを求められ続ける仕事をしてきた自分にとって、課題を「伸びしろ」と表現してそこに成長の機会を見出していくこの考え方は新鮮だった。失敗はあってはならないもの、取り除かねばならないもの、起こることが無いように事前に最大限の警戒を要するもの。ちょっと大袈裟に言うと自分の職場はこういう考え方だ。多くの人が失敗を恐れ、肩を縮こませているようにすら見える。

キャロル・S・デュエック「マインドセット『やればできる!』の研究」を読んだ。人の能力・資質は石板に刻まれたように固定的で変わらないと信じる考え方(=硬直マインドセット、Fixed Mindset)と、人の基本的資質は努力次第で伸ばすことができると信じる考え方(しなやかマインドセット、Growth Mindset)の二種類の考え方があると書いてあった。そして、硬直マインドセットに囚われていると、絶えず自分の能力を証明せずにはいられない、一つの失敗の事実が、自分が失敗者であるというアイデンティティになってしまうという。他方、しなやかマインドセットであれば、失敗を機会と捉えて奮起し、教訓を得て更に成長を続けていけるという。

半年ぐらい前、仕事でちょっとした失敗をしたことがあった。その時自分は、どうしようもないぐらい落ち込んだ。これで評価も落ちた、やっぱりこの仕事には向いていないんだ、資格がない、自分に向いている別の仕事を探さなくては、などなど。今考えるとおかしな話だが、硬直マインドセットそのものだった。また、自分の職場では、「〇〇さんは優秀だ」といった表現がされることもよくある。これもある意味、硬直マインドセットの現れであると思う。その人がどのような努力をしてきたかを想像せずに「仕事が(生来的に)できる人」という意味合いが込められており、自分はそのようにはなれないといった卑屈さや嫉妬、諦観などが見え隠れするように思われるからである。

客観的にみると、トライアスロンのコーチが言うように、自分にも伸びしろが実際にあって、一生懸命練習をすることにより確実に成長してきた。仕事や学習、人間関係だって同じはずだ。自分にも、この組織にも、家族にも、誰にでも伸びしろがたくさんある。事実を直視する勇気と、それを機会と捉えるマインドセットと、努力を継続できる根気。これを回し続ける情熱が伝播していけば、自分も周りもどんどん成長を続けられるはずだ。

優劣や善悪の判断をくだすのはやめて、教え導いていこう。今まさに学んでいる最中なのだから。(p271)

(追記)先週、代官山蔦屋書店で行われた孫泰蔵さんの「冒険の書」刊行記念トークイベントに参加してきました。泰蔵さんは、「学生の頃から数え切れない程失敗してきた。失敗の数なら誰にも負けない。それが今の自分の自信につながっている。マーク・ザッカーバーグやジェフ・ベソスとも、その自信があったから対等に話すことができた。」とおっしゃっていました。

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レジリエンスは育てられる。「運動脳」

念願だった職場に異動となって最初の2週間が経過した。が、今の心境を隠すことなく言うとするなら、「重圧に押しつぶされそう」といったところだ。

変化には当然伴うことだとは分かってはいる。でも、仕事の進め方が違う、人間関係が違う、求められているものが違う、といった調子で心と身体が追いついていかない。やるべきことがあまりにも多過ぎて、そしてそれがうまくできないので自信を無くしていく。常に時間に追われて焦燥感に駆られる。早起きしてなるべく朝に仕事をしようとするが、疲弊していて起きられない。

このままでは絶対にやられると思った。ので、ある日の夜、仕事を全部放り出してランの練習会に行った。そこで1時間強、頭を空にしてひたすら走った。GARMINがパフォーマンスコンディション「+6」(初めて見た数字だ。)を出してくれるぐらいに気持ちよく、飛ぶように走れた。感じたことのないような高揚感を得た。次の日の朝の気分も最高で、いくらでも仕事ができるような気分で一日を過ごすことができた。

以前、オリンピアンの関根明子さんから、アンデシュ・ハンセンの「運動脳」を読むべきだと勧められていて、だいぶ前に買ってはいたものの積読になっていた。今こそ読むべき時だと思った。脳は、継続的な運動によって物理的に変化させていくことができ、それにより、ストレス耐性、集中力、記憶力、創造力などを高めていくことができるということだった。

自分の脳が物理的にどのように変化したかを確認できないから、実際のところは分からない。でも、これが正しいことを自分は知っている。継続的にトレーニングしてきたことにより、レジリエンスは確かに高まっていた。長時間、集中を切らさずに仕事ができるようにもなっていた。先週はリフレクションについて考えたが、習慣的な運動による脳の成長と、リフレクションを通じたメタ認知からの行動の変容の組み合わせは、車の両輪のように、自分を支え、前に進む推進力をくれる。必ずしも爆発的なものではないが、静かに、芯の通った、着実なエネルギーとして蓄積されていく。知らないうちに、こんなに強力なツールを手に入れていたのだ。

さて、もう一度今の心境を言うと、「重圧に押しつぶされそう」なのである。だから、明日は朝からトレーニングをして、何だかよく分からないけど脳の特定の部分を育てて、その重圧と「共にある」ことを選択して、この機会を活かしてより前へ、その一歩を踏み出すつもりだ。

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内省が持つ確かな力。「リフレクション」

熊平美香「リフレクション 自分とチームの成長を加速させる内省の技術」を読んだ。いつもながら荒木博行さんのBookCafeの対談放送で熊平さんの存在を知った。「認知の4点セット」(意見・経験・感情・価値観)を基礎に、リフレクションの基本的な5メソッド(自分を知る、ビジョンを形成する、経験から学ぶ、多様な世界から学ぶ、アンラーンする)を紹介し、これらをリーダーシップの強化、自律型学習者の育成、組織づくりへと応用させていく方法について詳しく説明されている。

自分の経験上、内省が有効であることに疑いようはないが、普段メモ書きをしている時も、「今日は何から書こうか…」などと逡巡することも少なくない。認知の4点セットの枠組みで、また、基本的な5メソッドの切り口で内省を始めることは効率が良く、かつ、テーマや的確な問いを用意してくれているので効果的でもある。毎日の内省の他にも、今後訪れるであろう色々な転機のときに行う内省にきっと役立つと思う。

さっそく「自己変容のためのアンラーン」を試してみた。もっと深掘りできそうだけれども、とりあえずその成果を以下に書いてみた。これで初めて気付いたことは、自分は、予想外のことにペースを乱されることを嫌っていて、そのために自分が犠牲になっているような感情を持っていたということだった。しかし、明日からは、予想外のことは必ず起きることを前提に、これを成長のための機会と捉えて、自分から積極的にペースを変えていくことにした。

【STEP1 改善目標のテーマを選ぶ】○改善目標のテーマは何ですか?→「何かを犠牲にすることなく、家族の幸せ、仕事での成果、心身の健康、新たな学びを同時に成し遂げたい。」○改善目標について、どのような経験がありますか?→「トライアスロンの練習やこれに伴う出会いから、外に出て新しいものに触れることで、自分の幅が広がり、人生が充実して、仕事にも良い影響があった。念願の仕事ができるようになったが、5年前までは、仕事が第1順位に来ていて、家族や、仕事以外からの学びをおろそかにして、家族を苦しめたし、職業人としても未熟だったと思う。」○その経験には、どのような感情が紐づいていますか?→「(新しい発見、学びへの)喜び、(家族を犠牲にしたことへの)罪悪感、悲しみ、(仕事がうまく行ったことの)嬉しさ。」○そこから見えてくる、あなたが大切にしている価値観は何ですか?→「信頼、愛情、視野の広がり、交友関係、良質な仕事、バランス、努力。」

【STEP2 改善目標を決めるために、改善前の行動と恐れの感情を洗い出す】○改善前の行動は、どのようなものでしたか?→「朝、ゆっくり出勤し、何となくダラダラと深夜まで残業していた。その間、集中が続かずダラダラしていた。子どもが自分を必要としていると気づいているのにスルーした。SOSサインが出ていることを認識しながら積極的に介入せず、押し黙った。」○改善前の行動に基づく恐れの感情は、どのようなものですか?→「完璧なものを提供できないために失望されるのではないかとの不安、調べきっていない、考えきっていないのではないかとの不安、目の前の課題に対処することにより十分に休息が取れず、自分が疲弊してしまうのではないかとの不安、全てのことを完璧にしたいのに時間がないという焦燥感、自分の計画を乱されることへの怒り、不快感。」

【STEP3 感情の背景にある価値観を掘り下げる】○何を大切にしているから、その感情になったのでしょうか?感情に紐づく価値観を洗い出してみましょう。→「調べ抜き、考え抜かれた上での質の高い成果、規則正しく規律ある生活のリズム、健康、精神の余裕、自己肯定感。」○その価値観は、どのような経験によって形成されたのでしょうか?→「特定の分野で結果を残した人として評価されたこと、生活のリズムを整え、計画的に行動したことにより目標を達成したこと。」○その価値観が人生の助けになるのは、どのようなときですか?→「質の高いアウトプットが求められているとき、ステークホルダーからの期待値が高いとき、タスクが予測可能なとき。」○その価値観が人生を難しくするのは、どのようなときですか?→「突発的に予想できなかったトラブル等が発生したときに、対応に追われ、自分のリズムが乱され、台無しにされたように感じる。」

【STEP4 自己変容のビジョンを明確にする】○自分自身の何を変えたいですか?→「やりたいこと、やるべきことが多く、また、突発的なトラブルが起きたときも、心の平穏を保ち、質を損なわないまま、対応できるようになりたい。」○改善目標に取り組むと、どんなよいことがあるのでしょうか?あなたは何を手に入れるために、自己変容にチャレンジするのですか?→「家族が自分を必要とするときにそこにいることができ、かつ、仕事でもしっかりと成果を上げることができる。自分が何かの犠牲になっているという感覚から解放され、その時間をとても大切なものと感じることができるようになる。」

【STEP5 アクションプランを考える】○まず、何に取り組みますか?→「次に突発的なことが起きて自分が必要とされたときに、これを好機ととらえて、積極的に予定を変更してその機会に応じる。」○最初のステップにおける成功の評価軸は何ですか?→「ニーズに応えた相手がハッピーと感じているか。自分が犠牲になったとの『被害者感情』を脇に置けるか。」○いつ、最初のステップのリフレクションを行いますか?→「1週間後、次のブログを書くときに、メモを作る。」○どのような自己変容が起きることが、最終ゴールでしょうか?→「短期、中長期で達成目標を掲げ、日々の予定を考えつつも、状況、周りのニーズに応じて柔軟に対応し、かつ、それをポジティブにとらえて成長の源泉にできるようになる。」

スヌーピーのフラペチーノと一緒に内省しました。

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自由の基盤となるか?「ベーシック・インカム」

とある県の小さな市に、2週間に1日だけ訪問して仕事をする、ということをしていた。そのときに目の当たりにしたのが、小さな子を抱えた若い親を襲う厳しい貧困だった。配偶者の実家との関係が悪かったり、配偶者からの暴力を受けたりしても、自分と子どもとの生活を守るためにまずは耐えなくてはならない。どうしても耐えきれなくなって離婚することになれば、片親で孤独な育児を余儀なくされる。元配偶者の収入も必ずしも高いわけではないから、養育費の支払をまともに受けることもできない。ワンオペで家事や育児を行わなければならず、生活保護を受けることは、社会から失格者の烙印を押されるようで気が引けてしまう。過疎化した地域の中で、仕事も多くあるわけではなく、きつい不本意な仕事でも続けざるをえない。

「人は生まれながらにして自由であり、自らの努力により、未来を切り拓いていける」と、何の不自由もなく子どもの頃を生きた自分が話したとしても、来月の生活がどうなるかすら分からない、という現実の前では、あまりにも空虚である。

図書館で偶然見つけたフィリップ・ヴァン・パリース=ヤニック・ヴァンデルポルト「ベーシック・インカム〜自由な社会と健全な経済のためのラディカルな提案〜」を読んだ。本書で定義されている無条件ベーシック・インカムは、①世帯の状況とは関係なく、完全に個人として受給資格が与えられる、②収入や資力の調査を必要としない普遍的(ユニバーサル)なものである、③対価として労働をしたり、就労の意思を証明したりする必要のない、義務を課さないという3つの意味において無条件で現金給付をする仕組みをいうようだ。

現物給付より現金給付が望ましいのは、「現金給付の受給者にはお金をどのように使うかの自由が与えらえ、ささやかな予算のなかでもとりうる多様な選択肢を個人の好みで選べるから」である。世帯単位ではなく個人単位で給付すべきなのは、世帯内部での権力の配分に影響し、また、給付を受けるために同居を回避するなどの事態を防ぐことができるからである。普遍的(収入や資力の調査を必要としない)であるべきなのは、複雑な手続きを廃すると共に、受給者に汚名を着せないためであり、失業の罠(給付金受給資格の喪失を恐れ、また就業の不確実さを恐れ、失業状態にとどまろうとする。貧困世帯が自力で稼いだ分だけ、給付金が必然的に返還されてしまう。)から解放するためである。義務を課すべきでないのは、雇用の罠(給付金を貰い続けたいなら職にとどまらざるを得ない労働者に対して、雇用者はより低い賃金を支払って済ませてしまう。)から解放するためである。このような無条件のベーシック・インカムが整備されることによって、単に失業者、貧困層を労働力として採用することができるだけではなく、どんな人でも、フルタイムの現在の職業にとらわれることなく、さらなるスキル等習得のための訓練、ボランティア活動、育児、余暇などのために、職業から一時的に離脱することが可能となるという。

理想的なように思える。子どもが学校に行きたくないと言ったときに自分がそれをなかなか受け入れられなかったのは、学校に行かずに大学に入らないことで、この能力主義の社会から取り残され、二度と這い上がることができなくなってしまうのではないかという恐怖があったと思う。全ての人にベーシック・インカムが保障されれば、良い会社に入るために受験勉強に励む小学生も、ブラック企業を辞められない会社員も、子どもが親に家にいて欲しいと思う時に出勤しなければならない親も、とにかく就職活動に有利になるために大学生活を設計しなくてはならない学生も、今のキャリアが時代遅れになっていることに勘づいていながらも住宅ローンがあるからキャリアチェンジができない人も、その時点で優先順位の最も高い活動を選択することができるようになりそうである。もちろん、冒頭で書いたような貧困に苦しむ若い親を救い出すことにもなるだろう。

しかし、この本を読んでも、この無条件ベーシック・インカムが実現することはないのではないかと思った。努力・労働への信仰は根深いし(成功者が1か月海外旅行に行くのは当然であるが、生活保護受給者が近所で遊んでいるのは許されないようだ。)、公金を富める者のために使うことへの抵抗感も強い(高等学校の就学支援金にすら所得制限があり、夫婦共働きであれば支援を受けられる可能性は低い。)。日本の場合は、この本が「裏口」と呼ぶ、別の形から「ベーシック・インカム的なもの」を導入し、それを徐々に発展させていくというのが現実的だと思う。児童手当の所得制限が撤廃されそうだが、これはその方向性に沿っていると思う。

「人生は無理ゲー」という人が見る現実に、自分はどうしたらいいか答えが出ていない。せめて自分の子どもたちには、自由に好きなことをさせてあげたいが、それは、自分が子どもたちを長く養い続けることが前提となってくる。本当にそれが可能なのかも分からない。分からないまま、とにかく身体を健康に保って、しっかりと仕事をして、大丈夫だよ、という顔をしながら今日を過ごしているのだ。

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泥臭くリアルな学びの旅「独学の地図」

毎日「book cafe」でたくさんの気づきを与えてくれる荒木博行さんの「独学の地図」が発売されたので、さっそく読んでみた。

「それっぽい一般論」は、私たちの本来の学びに蓋をしてしまうのです。私たちが本気で学ぼうとするのであれば、すぐに忘れ去られてしまうような「それっぽい一般論」をそのまま放置してはなりません。そういうきれいな言葉を排除して、知的な負荷をかけながら、裏側に隠れている「経験の前後の差分」を削り出していかなくてはならないのです。(63p)

学びとは「差分」である。そしてそれは、見てくれの良い成果ではなく、その学びの前後の経験に照らして「削り出される2ミリ」であり、キャッチーなもの、聞こえの良いものではなく、自分だけの経験であるから無骨な形になる。差分を削り出すには、アウトプットをしてみて、そのアウトプットに「それっぽい一般論」がないかをチェックし、これを自分だけの具体論に変換する。それは、今この瞬間の自分しか語ることのできない具体論である。このようにして学びを発見することが成長である。

自分は、この1年ほどでたくさんの刺激を受け、考え、自分の領域・コンフォートゾーンから出ようと思った。その試みの一つとしてブログを始め、とにかく1週間に1回は更新することにした。ただ、ブログに書いてきたことは「それっぽい一般論」しか書いていなかったと思う。いや、その時に感じたことはそのまま書いたし、特に本のレビューブログを目指しているわけでもないので無難な表現とかに落ち着かせようと思ったことはなかった。ただ、刺激を受けて自分に起こっていることを表現するにあたって、その解像度をより高めていく、という発想がなかった。例えば「冒険の書」を読んだ時には身体が熱くなったが、あの時自分に一体何が起こっていたのか。自分はコンフォートゾーンから飛び出したいと考えていた。そして、身体が熱くなったのは、私はそれを実現することができる、今この瞬間から、自分の心の枷は取り払うことができると確信を持てたからであり、そうして自由になった心で毎日、仕事や、トライアスロンの練習や、読書や、遊びを楽しんでいる姿を二人の子に見て欲しい、二人とも自由に生きていいというメッセージを自分の生き方を通じて伝えたい、という強い気持ちが溢れ出てきたからだと思う。

まだ不十分かもしれないが、自分だけの学びを削り出すという頭の働かせ方をしてみた。いま、他にもいくつかの本を読んでいて、気づいたことをメモしたりしているけれども、ここから更に「削り出していく」頭の使い方をしたいと思えた。また、学びは本とか授業とかからのみされるものではなく、明日オフィスで作ることを想定している書類の作成作業からも、2ミリの学びを削り出してやろうと思えた。

学びをビジュアライズする「ラーニングパレット」の考え方は、自分が感じている閉塞感の正体を探り、これを打開する手がかりになりそうである。今日現在のラーニングパレットを仮に作るのであれば、「基本カラー」は過去の事実の判断者であり、その対局にあるのは未来、当事者ということになる。そして、サッと中身について思いつくところを入れてみると、「判断者/過去」には「規範、証拠、評価」、「当事者/過去」には「成果、伝統」、「判断者/未来」には「兆候、調整、意思決定」、「当事者/未来」には「理想、意思、実行」などが仮に入った。粗々ではあるが、「未来について『自分事』として考え、実行する」ことへの憧れが自分の中にあるように思えた。もちろん、仕事の内容が少し変わる4月からは、「判断者/過去」の領域の学びの解像度を高めていくこと(深化型学習)がしばらく必要となり、忙殺されるかもしれない。ラーニングパレットのアップデートは、また少し走ってから行うこととしたい。

この本は、なんとなく「学び」について感じていた違和感(読書それ自体が目的化していないか、「学び」そのものが消費の対象になっているのではないか)に答えてくれた。「学びを削り出す」という考え方がとても刺さった。

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世界は知ることができる。「すごい物理学講義」

「知ろう」という思いを放棄することに、アルキメデスは全力で反発した。彼の仕事は、「世界は知ることができる」という信念の表明であり、そして同時に、自らの無知に甘んじ、自分には理解できないものを無限と呼び、自分以外の誰かに知を委託する人びとにたいする、決然たる異議申し立てでもある。(304p)

カルロ・ロヴェッリの「すごい物理学講義」を読んだ。読後感を表現するのが難しい。というのも、「物理学講義」と題されたこの本を読み終えた今となっても、自分はこの本で説明されているテーマを、おそらくは1%さえも理解できていないからだ。

古代ギリシャからニュートン、ファラデー、アインシュタインまでは、どんどん読み進められた。量子力学あたりから雲行きが怪しくなってきており、後半になってくると1ページに数分掛けないと先に進まなくなった。そして読み終えたが、やはり理解できていない。だが理解できたこともある。物理学がとても奥深く、興味深く、これをもっと知りたいと自分が望んでいるということだ。

わたしたちはなにも、巨人たちの背丈に追いつこうとあがくことはない。そうではなく、後世に生まれた利点を活用して、巨人たちの方に腰かければよいのである。そのとき、わたしたちは巨人たちより、さらに遠くを見ようと試みるだろう。どのような手段を選ぶにせよ、わたしたち人間は、試みずにはいられない生き物だから。(274p)

上記の引用は、よく、先人の知恵の上に私たちが立っており、そこにさらに知を重ねていくということで、学ぶことの価値を説く際によく引き合いに出されるアナロジーであるが、この本が初出だろうか(追記:自分の無知を恥じねばならないが、初出はアイザック・ニュートンだ。)。いずれにしてもお気に入りの表現である。「進撃の巨人」が大好きな自分にとっては尚更である。

兆候と証拠を分けて考えることが重要である。(中略)正しい理論に向かって、正しい道を進むためには、兆候が必要である。発見された理論が本当に優れたものかどうかを判断するには、証拠が必要である。兆候がなければ、わたしたちは間違った方向に進むだろう。証拠がなければわたしたちはいつまでも疑念を抱き続けるだろう。(275p)

兆候と証拠に関する上記の記述は、事物を把握し、見えない事実を探っていく際の姿勢として参考になる。証拠偏重主義にどのようなリスクがあるのか、直感と証拠の関係は何かなど、新たな問いかけをもらったと感じる。

わたしたちが知っていることや、知っていると信じていることは、正確さを欠いていたり、間違っていたりする可能性がある。知の限界の自覚とは、こうした可能性の自覚でもある。自分たちの見解に疑いをもてる人間だけが、その見解から自由になり、より多くを学ぶことができる。思考の内奥まで根を張っている見解さえ、ときには間違っていたり、あまりにも単純だったり、いくぶん検討はずれだったりする。なにかをより深く学ぶには、勇気をもってこの事実を受け入れなければならない。(339p)

最近、科学に関する本を読むことが多いが、科学に携わる人のほとんどが、上記のような立場、すなわち、自らの考えや常識を疑い、そこから自由になることにより新たな発見に到達していこうとする姿勢の重要性を強調している。まさに「無知の知」ということだが、「すごい物理学講義」では、時間や空間、無限といった、私たちが当然にその存在を前提としていた概念すらも、貨幣と同じように単なる社会的コンセンサスにすぎず、その前提を疑って新たな知を切り拓いていった勇気ある先人たちの挑戦がドラマティックに記述されている。

主題の内容が理解できないのにこの本が自分の心を躍らせてくれるのは、科学者たちが知のフロンティアに挑み続ける姿勢に共感し、励まされるからであって、自分は科学者ではないが、もっと知らないことを知りたい、常識と考えられているものを疑い、世界の見方をアップデートしていきたいという気持ちが湧き出てくるからである。

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孫泰蔵「冒険の書−AI時代のアンラーニング」

孫泰蔵さんが「なんで学校に行かなきゃならないの?」という素朴な問いから出発して、現代の教育システムや社会、人々の価値観に繋がっている過去の思想がどのような背景から生まれてきたのかを、その過去の思想家との架空の対話を積み重ねながら自分の頭で一つ一つ考えていき、今の時代で必要とされている教育とは何か、学ぶことの意味は何か、そもそも生きる意味とは何か、を突き詰めて考えた力作。

と、まとめてはみたものの、この本を読み終えたいま、手が震えている。身体が熱くなって、駆け出したいような衝動を感じている。自分も心の底から学びたい、より善く生きたいという感情があふれ出てくる。とてつもない情熱が伝わってくる。そして優しい。過去への尊敬の念や他者への愛が文字から飛び出てくるようだ。

孫泰蔵さんが社会や教育に関して考えたことを書き留めた「探究ノート」から始まり、やがてそれを仲間とシェアして学びを深めるためにエッセイとして投稿していたものを、書籍化するために再構築したという。小さな問いからスタートして本から学び、考えて一つひとつ答えを探りながら新たな問いを立てていく。元々共感を覚える内容が多かったので、うんうん、と心の中で頷きながら読んでいくと、どんどん話が大きくなっていく。おいおい、これはどこまで行くんだろう、とちょっと引いた感じで読んでいたはずが、終盤に行くに連れて、文章の熱量に自分の心が沸騰していって、途中で涙が止まらなくなってしまった。ああ、自分もこんなふうに学びたい、生きたいと考えているんだ!

引用したくなる節はたくさんあって、でもそれを引用してもこの本の良さは伝わらない。一言でいえば「アンラーニング」なんだけどこの単語だけではこの本の姿勢やスケール感が伝わらない。読んで欲しい。自分の家族(親兄弟も含めて)、友人、仕事仲間など、関係を問わずとにかくみんなに薦めたい。

とりあえず次に引用する一節は、自分がなぜ知的財産に惹かれるのか、という、最近つとに考えている問いにヒントを与えてくれるものとしてここに残しておく。

小さな「問い」に始まり、「つくる」ことを通じて「わかる」ようになる。同時に「わからない」こともたくさん生まれ、そこからさらなる「問い」が生まれる。それらを繰り返していくうちに、なにか「形になったもの」が生まれる。それがなにかを解決していたら「イノベーション」と呼ばれ、人類のまったく新しい知を開くものであれば「発明」と呼ばれ、人の心を動かすものであれば「芸術」と呼ばれる。そして、すべての創造は「アプリシエーション」により支えられ、さらに素晴らしいものへと高められていきます。

創造へのアプリシエーション。自分の感覚にぴったりマッチしているわけではないけれどもかなり近い。発明、表現、デザイン。いずれも人の知的な営みの成果物であり、その創造性に触れることが自分を熱くする。問いと学びがつながっていく。

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「NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか?」

「判断の目標は正確性であって、自己表現ではない」(下・p252)

日々、自分は判断をする仕事をしているわけだが、その判断に無意識のうちにエラーが介在する構造が生じているとしたら、そもそも自分の存在意義が問われることになるわけである。私たちは、たとえ今後AIがどれだけ進化することとなろうとも、自分たちが判断する領域が(変容することはあれ)無くなることはないと考えていると思われる(そのようなことを明言した人も見たことがあるし、声には出さなくともおそらくそれを疑っていない人がほとんどではないか。)。

カーネマンの「ファスト&スロー」は自分の意思決定がどのような回路でされているかを考える良い刺激となった。学びが多かったので、今度は続書といってよいと思われる「NOISE」を読むこととした。結果、自分へのインパクトは「ファスト&スロー」以上であった。職場での課題図書にすべきだとさえ思う。あらゆる判断者に必読の書といえる。

上巻では、刑事裁判の量刑、保険会社従業員による保険料及び保険金の査定、懲罰的損害賠償額の算定など、自分の仕事の領域に近い分野においていかに判断にノイズ(判断のばらつき。これにも種類があって、パターンノイズ〔機会ノイズを含む。〕とレベルノイズがある。)が生じているか、しかもその現実がいかに看過し難いものであるかを、あらゆる方向からこれでもかと見せつけられて、まあ一言でいうと凹んだ。どれもその通りである。よく「AIが判断した方がマシ」と言われて、そのような世界は遥か先のことであろうと感じていたものであるが、もはやそういう次元の話ではないレベルで自分の判断は歪んでいる(いた)可能性が高く、そう言われれば全く否定できないのであった。

しかしありがたいことに、この本は下巻ではいかに私たちの判断をより良くしていくか、その方途を示そうとしてくれている。まずは判断者として望ましい人材の在り方についてである。

同等の訓練や経験を積んだ同僚と比べ、明らかに抜きん出てよい判断をする人がいる。そうしたすぐれた判断者は、バイアスもノイズも少ないと考えられる。(中略)おそらく求めるべき人材は、自分の最初の考えに反するような情報も積極的に探し、そうした情報を冷静に分析し自分自身の見方と客観的に比較考量して、当初の判断を変えることを厭わない人、いやむしろ、進んで変えようとする人である。(下・p59)

そして、まずはバイアス対策として、「意思決定プロセス・オブザーバー」(ある意思決定の過程を観察し、その都度バイアスがかかっていないかを見抜く第三者)を置くことを提案する。その者が持つべき「チェックリスト」(下・付録B)は有用なツールであり、ひとまずは自分の心の中の意志決定プロセス・オブザーバーに持たせる文書として、スキャンして日々持ち歩けるようにした。

さらに、ノイズは時に(というよりかなりの割合で)重大な結果を招いているにも関わらず予測不能であり、指摘困難であることから、予防的に「判断ハイジーン(衛生管理)」という概念を持ち込み、その具体的実践例を紹介してくれる。

①科学捜査における情報管理(判断者に与える情報とタイミングを厳格に管理する段階的情報管理、分析官は各段階で自分の判断を記録に残す、可能であれば数日、数週間後にもう一度判断する)

②予測の選別(積極的に開かれた思考態度〔永遠のベータ版・自分の予測を絶えずアップデートし自己改善する態度〕の持主を選別する)と統合(独立した多様な判断を引き出し、それを統合する)

③診断ガイドライン(複雑な判断をあらかじめ細かく定義された判断しやすい要素に分解しておく)※精神科診断のノイズを減らすのは難しいが、それでもガイドラインの客観化の努力が進められている。

④組織での個人評価にはシステムノイズが大量に存在する。これを克服する方法の一つとして、評価尺度の明確化(行動基準評価尺度とケース尺度など)とこれを正しく使用するトレーニングが考えられる。しかし、そもそも人事評価を行う意味、必要性、目的について突き詰めて考え、大量のノイズを除去するためのコストを支払うことに見合っているのかを吟味することが肝要である。

⑤採用面接の構造化の例として、評価項目を分解する(媒介評価項目を決める)、評価を独立に行う(構造化行動面接)、総合判断は最後に行う(最後の判断のことは一度切り離して、まずは個別の評価を行う)という三つの原則を据える。

ノートが長くなってしまったが、最後に架空の事例を用いてノイズを除去するための意思決定の具体的アプローチを詳しく検討している。この事例を用いた説明が秀逸で、この本をここまで読んできていれば、重要な意思決定を行うに際して決めるべきこと、留意すべきことを段階に応じて確認できる。

我が業界でも、判断をいかに「客観化」するかということが公に熱く議論された時代があった。確かに先人たちが暗黙知の言語化を試みたことがあった。批判がありながらも、いろいろな「算定基準」を作ったことにより判断の予測可能性が高まった分野もある。現在は、持ち込まれる問題がより複雑化・先鋭化しているとの認識を踏まえ、集合知を活用すべきとの考えが主流であるように思う。しかし、この本を読了した今となっては、私たちは、情報を受け取り、評価し、判断することを業としているのに、情報の受け取り方については無防備であるし、評価・判断については直感的に過ぎるといわざるを得ない。「三人集まれば文殊の知恵」のように、みんなで考えればより判断が良くなるだろうとの姿勢のみでは、本書で指摘されたエラーが生じうる構造をほとんど克服できないと危惧される。

ともあれ、一人でそんな危惧をしても仕方ないので、差し当たりこれからの自分の判断に取り入れられるものは取り入れていきたい。まずは評価媒介項目のリストアップだろうか。他方で、この本の最終盤で議論された価値観の変容への対応の余地、人間の尊厳との関係については、自分の判断もさることながら、組織全体の判断に対する考え方との関係でも、さらに自分の中でテーマとして持っておきたい。判断は聖域であるとの信仰は根強い。何を見て、何を考え、どう動くべきなのか。重い課題を与えられた。

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