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カテゴリー: 読書

届けられた封筒と「世界は贈与でできている」

ありがたいことにボーナスをいただいたので、住宅ローンのボーナス払いのために、給与振込口座から住宅ローン引落口座にお金を移動させる必要があった。165円の送金手数料を惜しんだ自分は、銀行のATMで現金**万円を払い戻して、それを封筒に入れ、その封筒をコートの胸ポケットに入れた(はずだった)。そして、100メートルほど離れた別の銀行のATMに到着し、カードを入れて、コートの胸ポケットに手を入れた。

…封筒がない。

後ろにATMの順番待ちをしている人がいたので、急いで「取引中止」を押してカードを回収し、歩いてきた道を走った。白い物が落ちているのを見たが、残念ながら「レジ袋」だった。右下、左下と交互に視線を走らせ、銀行までの道を更に走った。封筒は落ちていない。ATMコーナーに入って周りを見ても、ない。文字どおり青ざめた。つい15分ぐらい前には、PayPay払いで高率のポイントバックがあって得したなー、とか思っていたのだ。今やそれとは比べ物にならないほどの金額を失っている。

警察に電話したら、すぐに近くの交番に届けてくれと言われた。でも自分は交番ではなく走って警察署に行った。今ならその理由が分かる。俺の現金を拾ってそのまま持ち去った奴がいる。捜査してそいつを捕まえて欲しい。自分は、世界をそのように見ていた。多額の現金が落ちていたら、それを自分のものにする社会。昔の日本では落とした物も返ってきたけど、今は違う。もうそんな社会じゃないんだ。ああ、明日のトライアスロンの練習に行くような気分になれないな、そもそもお金がかかるからトライアスロン自体を止めようかな、家族になんて話したらいいのか、本を買って勉強することもできないな、そもそも勉強したって給料上がらないじゃないか一体何のためにやっているんだろう…

「今のところ落とし物の記録はないですね。捜査ですか?犯罪の可能性というか、事件性みたいなのがないと…。防犯カメラを見てもらって、それらしき人が写ってたりとかね。あ、でも明日は銀行休みだから月曜日にならないと確認できないね…」

「そうですよね。私もそういうのに関係ある仕事しているので分かります。いちおう占有離脱物とかで…」なんて言えなかった。自分の見ている世界では、かなりの確率で拾った人を特定できないし、たとえ現金を拾った奴を捕まえても、もうそいつはその現金を使い込んでいて、返済する資力はないのだ。

警察官から慰められるような言葉をいくつか掛けられた後、もう一度だけ銀行から銀行までの道のりを歩いて封筒を探した。もちろんない。銀行の前に若い二人が楽しそうに話している。とても醜いことだが、この二人を疑ってしまった。今頃この二人は、予想外の収入に喜んでテンションが上がっているのかもしれない。なにも声を掛けられないでいるうちに、二人は自転車で別々の方向に去っていった。

もうダメだ。家族に正直に話して少しだけこれからの節約をお願いしよう。最後に、銀行の近くの交番に行ってみて、そこに届いてなければ諦めて帰ろう…

はたして。

その交番には、警察官と、60代くらいの男性一人とがいて、カウンターの上には見覚えのある封筒があった。

「あの…お金の入った封筒の落とし物はありませんでしたか…」

と聞くと、警察官と男性とがビックリして顔を見合わせた。そして、その男性の方が、

「ほら!やっぱり!年末だから困ってるだろうと思ったんだよ!よかったな!家族には話したのか?大変だったよな!年の瀬だからさ!よかった!よかった!」

って大きな声で、でも優しく、ニコニコしながら一方的にどんどん話してきた。そして、お礼をしたい、と言ったのをキッパリと断って、書類をさっさと書いて、「俺へのお礼は要らない。代わりに、年末はいろんなところで募金運動してるから。1000円でもいいから募金してあげて。」と言って、颯爽と帰っていってしまった。

僕は泣いてしまった。もちろんお金が見つかったから嬉しかった。思いがけず人の優しさに触れた喜びもあった。でも、涙の内訳は複雑だった。世界を見る自分の眼が曇っていることを痛烈に思い知らされたのだ。

「俺にお礼をするぐらいならそのお金を募金に使え」と言われたときに思い起こしたのは、昔の映画「ペイ・フォワード」だ。与えられたものにお返しをする代わりに、それを自分の誰かに与え、その輪が広がっていく。さらに、自分はこの頃、偶然にも近内悠太「世界は贈与でできている–資本主義の「すきま」を埋める倫理学」を読んでいた。そこに書いてあったことを自分なりに要約するとこうなる。

対価性を要求しない「贈与」は、宛先に届くことを待つ、届かないかもしれないけれども届くことに賭けてみるという倫理的な行動である。それは「祈り」に似ている。贈与は過去に既に差し出され、届いていることもあるが、受取人がそれを受け取るには、それが「贈与であった」ことに気付くための「知性」が求められる。語られることのない「アンサング・ヒーロー」たちがしてきた無数の贈与の上に、現在の世界が成り立っている。そのことに気付いた者は、「アンサング・ヒーロー」からの贈与を受け取ることができ、その返礼として、再び、この社会を見えないところで支える主体となることができる。贈与は与え合うものではなく、受け取り合うものである。

自分は、お金を落とさなければ、この社会が「アンサング・ヒーロー」たちの贈与によって支えられていることに気付くことができなかった。どれだけ、人の優しさ、暖かさ、熱意、誠実さ、愛情、正直さ、尊厳、祈りに目を向けようとしていただろうか。人の、社会のイヤなところを敢えて見つけ出して、嘆くだけの人間になっていたのではないか。あたかも自分はそのような醜さとは無縁であって、自分だけの力で生きていると傲慢にも勘違いしていたのではないか。情けなくてどうしようもない気持ちになった。

どうしようもない気持ちになったのだけれど、今からでも「贈与」することはできる。贈与を受け取ることもできる。1000円を募金し、これからは、自分たちがどれだけの「贈与」を受けてきたのか気付いていけるようになりたいし、それができるだけの知性を身に付け、人と社会を見る眼を養うために、学び続け、内省し続ける人でありたいと思った。

あと、そもそも現金を落としたりしないように、ちゃんと頭と身体のメンテナンスを怠らないようにしないと。忙しいのを言い訳にしているようじゃダメだぞ。

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内なるリーダーシップ「すべては1人から始まる」

四月、自分がその下で働くことになったリーダーは、ありていに言うと「暴君」であった。私は、彼の下で徹底的に自己を抑圧され、なんら創造性を発揮させることなく日々を過ごした。その人は、組織の中ではその分野において最もキャリアの長いスペシャリストで、確かに、時に芸術的とも言えるほどの緻密で洗練された仕事をする。しかし、私は、彼から受けた仕打ちを忘れず、徹底的に憎んだ。今まで職業人として感じたことのないレベルの憎悪を抱いた。二度と許さない。彼が去った後、私は口憚ることなく周囲にその感情を撒き散らしていた。いつか自分のしてきたことの報いを必ず受けてもらう。心の底からそう思っていた。

夏になるとリーダーが変わった。新しいリーダーは、いわゆる「対話型」の人だ。自分は自由を得た。次から次へと浮かんでくる理想、アイデアを提案した。自分で責任を取ると決めて難しい仕事を引き受けた。自分が覚悟を決めて何かを前に進めたとき、明らかに周りの空気が変わった。それは組織の階層構造、指揮命令系統を超えた、コミットメント・覚悟が持つ引力を持っていた。

こうして自分は、リーダーシップは役職ではなく、責任を引き受けて物事を前に進めると決意し、行動に踏み出したときにその人を中心に発生すること、それはプロジェクトごとに異なること、そして、リーダーシップは組織内の階層のどこに位置していようが生じさせることができることを知った。

自分がこの半年の間に経験してきたリーダーシップをめぐる状況はざっくり言うと上記のとおりだ。そして、最近、トム・ニクソン「すべては1人から始まる」を読んだ。この本は「ソース理論」に関する本だ。「ソース理論」とは、自分の理解しているところによれば、あらゆる創造的な活動の源泉には、「ソース」と呼ばれるたった一人の人が存在する。ソースは、自分を曝け出してリスクを負い、具体的・継続的な行動(イニシアチブ)を立ち上げる。ソースの持つ価値観・ビジョンを実現するために必要な人・リソースが引き寄せられる場所が「クリエイティブ・フィールド」であり、具体的な成果を産み出していく。ソースは、必ずしも組織の頂点にいる人ではない。自ら責任をとって創造的な活動を生み出すと決め、動いた人のことであり、一見意外であるが、1人しかいない。ソースの価値観に共鳴し、そのクリエイティブ・フィールドに包含されるサブフィールドでソースに類似した役割を果たす人物をサブソースという。ソースもサブソースも継承することができるが、それは組織上の地位を継承するのとは全く異なる。

上手に概念が整理できていないが、何が言いたいかというと、夏以降の自分は、少なくとも「サブソース」であった。いくつか覚悟を決めて理想とするプロジェクトを自分の責任で果たすと決めた。それは一から自分が考えたものではないから、一番最初の「ソース」ではないが、大きなクリエイティブ・フィールドに包含される領域の中で責任を引き受け、サブフィールドを作り出したといえる。自分がサブソースになったのは自分の地位が原因ではない。自分がこのプロジェクトを引き受けるという覚悟であり、実際に行動に移したという事実が原因であった。そして、今後も自分はしばらくの間、ここでサブソースであり続けるという確信を持っている。役職は関係なく、自分がリーダーシップを発揮していく覚悟を持って、責任を引き受けていくと決めている。

さて、話を四月の「暴君」に戻す。彼のやり方は気に入らないが、彼は確かに自分の価値観を実現するために責任を引き受けて行動をしていた。彼も、やはり少なくともサブソースであった。私は彼の言葉を聞かないように右から左へと流していたが、彼が去る数日前だったか、深夜の部屋で私は告げられた。

「これからは君の時代だ」

全く理解できなかった。私の時代ではないはずだった。彼の後任者は決まっている。若造の自分の時代になるはずがないのだ。

「はあ。そうですか。」

数ヶ月が過ぎ、いまは彼の言葉を違った意味で受け止めることができる。君が責任を引き受け、行動を起こせば、組織の構造など全く関係なく、そこにリーダーシップが生まれる。彼は、一人で孤独に責任を引き受け、他人を恫喝することでビジョンを実現しようとしてきた。私が彼のやり方に反発し、自分なりの価値観を体現しようと企んでいることを知っていたのかもしれない。もしかしたら、サブソースとしての覚悟を私に継承しようとしたのかもしれない。

私は、彼のようなやり方はしない。しかし、責任を引き受けて行動を起こす。フィールドを作り人と資源を引き寄せていく。彼とは違ったやり方で、自分のビジョンと価値観を体現する存在となる。サブソースとして自分の在り様を問い続ける。傾聴し、対話し、伝え、決断する。それが自分をどこに連れて行ってくれるかは分からない。

期せずして短期間に二人のリーダーに付いたことで、私の組織を見る見方、リーダーシップの考え方は大きく変わった。当然ながら、私は、自分の人生のリーダーであり、すでに職場で実質的なリーダーになっている。

「暴君」から、何かを引き継いだのかもしれない。私は、憎悪の感情に自分を支配させることを止めた。私のサブフィールドに必要ない感情とは言わない。確かにそこにある感情だ。私は、好奇心と心理的安全性、失敗を恐れない姿勢、理想を追い求める姿勢、思いやる姿勢を大切にしたい。その価値観を共有できる仲間と共に、新しく生まれ変わっていきたいと、心の底から願っているのだ。

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トランジションのリアル「ラブカは静かに弓を持つ」

機会が重なって、小説を三冊連続で読んだ。読んだのは、浅倉秋成「六人の嘘つきな大学生」安壇美緒「ラブカは静かに弓を持つ」杉井光「世界でいちばん透きとおった物語」の三冊。

「世界でいちばん透きとおった物語」は、アイデアの勝利という感じで、「六人の嘘つきな大学生」は、よく作り込まれたトリックアートだと感じた。

「ラブカは静かに弓を持つ」は、上の二作品と比べると、驚きの要素が少なく、なんとなく腑に落ちなかった。でも、時間が経ってよく振り返ってみると、なかなかに深みがあるように思えてきた。物語は、簡単にいうと、音楽教室事件を題材としたもので、JASRACを模した団体の従業員が、ヤマハを模した音楽教室に潜入してレッスンを受けていく中で、人と音楽との触れ合いを通じてその心が変わっていく様子を書いたものだった。

題材的にどうしても職業的な目が入ってきてしまうが、よく調べられていて違和感がなかった。文章、言葉選びが繊細で、音楽の厚みをとても綺麗に表現できている。感情の描写も良く、前半はテンポもよく、前半の最後でグッと引き込まれてカタルシスへと到達した。

これはなかなか、と思い、期待しながら一気に読んだけれど、読み終わってみると、なにか物足りない。これは期待はずれだったのかな、と思ったのだけれど、なぜかモヤモヤしたので、この「物足りなさ」について、少し時間をとって考えてみた。レビューをみると、同じように、前半の勢いが後半になく物足りなさを感じた、という人がいた。主題が身近すぎるために感情移入しにくかったのかもしれない。ややJASRACサイドの描かれ方が辛かったために公平に欠けるという職業病的判断をしたのかもしれない。いろいろと考えた。

で、今のところの落ち着きとしては、「でも人生ってそういうものなのかも」というものになった。ひとが変わっていくときの変化は、多面的に、また時間差をもって起こり得る。例えば自分の心境にもたらす変化は、まずは小さな環境の変化から少しずつその土台が形成されていき、ある日突然堰を切るように感情を圧倒するような出来事、出来事でなくとも内的体験があったりして、決定的な変化がやってくる。でも、この変化は周りからは見えなかったりして、日常としてはいつもと変わらないごく普通の日々が続いたりする。それでも、自分の中は確実に変化しているから、これに導かれてその日常も少しずつ変化していく。それは、周りの人を巻き込みながら、心の変化とは違った歩みで徐々に進んでいく。もしかすると、心の変化ほどには劇的でなく、「物足りない」かもしれない。だけどそれも「変わっていくプロセス」の一部なのではないか。「じぶん時間を生きる」を読んだとき、「トランジション」は段階的に起こる、という学びがあったけれど、似ているのではないか。後半の「物足りなさ」は、変化した心を実現していく過程が、自分の心と現実との折り合いをつけながら過ごしていく一日一日そのものであって、目を引くような大事件だったりはしないからということなのかもしれない。それはとてもリアルで、そういう意味で「劇的」ということができるかもしれない。

もう少し進めて考えてみると、変化を起こすのは、いつでも、どこからでも行って良いのではないか、と思った。ちょっとだけ心の中に留めておくだけでも良い。お金を払って何かを買ったり、申し込んでみるのも良い。一日五分の習慣を初めてみるのも良い。思い切って新しい集まりに参加してみても良い。ものの進め方を少しだけ前向きに変えてみても良い。どこからでも変化は起き得て、そのスピード感やインパクトはそれぞれ異なる。それがたとえ「物足りない」ようなものであったとしても、時間が経ったり、思わぬシナジーが起きたりして、気がついたら大きく景色が変わっているかもしれない。

感情を大きく揺さぶるような音楽もあれば、BGMのように日常に寄り添うような音楽もある。「ラブカは静かに弓を持つ」の中にも様々な音楽が、文字を通じて流れている。それが「物足りなさ」という違和感を残し、ちょっとした気づきを与えてくれた。好きな作品だ、と思った。

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「経営理念2.0」+「じぶん時間を生きる」

佐宗邦威さんは、同世代のアイセッカーであり、ビジネスパーソンとして活躍したのちにデザインを本格的に勉強し、デザインを軸とした戦略コンサルタントとして独自の立場を築き、「模倣と創造」「直感と論理をつなぐ思考法」などの良書を世に送り出してきた。そんな彼が、相当の「生みの苦しみ」を経て、今までの集大成として書き上げたという「経営理念2.0」が出版された。

実はこの本を読んだのは結構前で、6月の初旬の頃だった。このとき自分は、「経営理念2.0」をワークブックとして用いて、本に書き込む形で自分のビジョン、ヒストリー、バリュー、ミッションなどを一応まとめ上げた。頑張ってまとめ上げたものの、なんとなくしっくりこなくて、いまだ外に出せない状況でいる。しっくりこないのは、ありきたりな言葉であって魂がこもっていないように思えることや、自分の実情との繋がりがはっきりしないことなどが原因かもしれない。ともかく自分が作った「経営理念」はお蔵入りとなった。

さて、職場では夏休みのシーズンに入ったのだけれど、とりあえず出勤して仕事をしていた。でも、なんだか集中できず、心ここにあらずの状態が続いたので、思い切って、水曜日から日曜日(本日)までの5日間を完全オフにして、仕事のことは一切忘れていろいろなことをしてみることにした。で、火曜日の帰りに見つけたのが、佐宗さんが「経営理念2.0」とほぼ同時に出した本「じぶん時間を生きる」だった。佐宗さんがコロナ禍等を契機に軽井沢に生活の拠点を移し、考えたことなどのエッセイを中心に、これをやや一般化するための分析を加えた書といったところだ。大きく2つに分けると、古い自分を捨てて、次なる自分を見つけ、新たな自分に生まれ変わっていくプロセスとその際に起こることを説明する「トランジション」の考え方、そしてトランジションの過程で佐宗さんがみた新しい生き方(時間のポートフォリオ:仕事、住まい、食、コミュニティ、教育)を紹介している。このうち、後者については、今の自分は東京に住んでいるし、リモート勤務もできない、兼業もできないということで、なかなか自分ごととして受け止めることはできなかったが、家族で岡山に住んでいたとき(この頃はリモートワークなど考えられない時期だったが。)の環境を考えると、その時間の流れ方をなんとなくイメージすることはできた。

自分に刺さったのは前者、つまり「トランジション」の考え方で、人生における転機には3つの段階があり、第一段階は「終わらせる段階」、第二段階は「ニュートラルな段階(ニュートラルゾーン)」、第三段階は「次のステージを始める段階(再生期)」である。

「終わらせる段階」は、全てのトラジションの出発点である。コロナ禍(グレートリセット)により色々な「当たり前」が強制的に終了され、トランジションを余儀なくされたという人もいるが、意識的に、惰性を断ち切って「余白」を生み出し、本質的な変化を呼び込むこともできるということだ。第二段階の「ニュートラルゾーン」は、自分の存在意義が危うくなることから最も不安に苛まれる時期であるが、内省等により制御しつつ、方向性を決めずに動き回り、新しいコミュニティに飛び込むなどして小さな化学反応を起こし続ける。第三段階になれば、頭と手を動かしてビジョンを作り、徐々に生活の中に「自分」を起点とした動きを取り入れていき、これを「他人基準」の行動と置き換えていく。ざっくりというとこんな感じだ。

結果として、5日間仕事から完全に離れて本を読んだり、身体を動かしたり、遊んだりしたことは、「休みであっても仕事をする自分」を終わらせて、短いながらもニュートラルゾーンを経験したことになる。第三段階をうまく総括できていないが、ともかくも小さな(トライアスロンじゃない方の)トランジションが起きてきるように思える。これが自分の仕事の仕方、時間の使い方がどう変わっていくのかはまだ分からない。5日間でやりたいと思っていたことが全てできたわけでもない。ただ、なんとなく「手放す方法」を理解することができたように思うし、ニュートラルゾーンでの動き方のイメージもそこはかとなく掴めたように思う。これから、このトランジションを少しづつ大きくしていくことにより、「じぶん時間」の生き方、それにマッチした仕事やコミュニティなどを見つけることもできそうだなと感じた。その時は、お蔵入りになった自分の「経営理念」を見直して、もう少し自分の心に寄せたものが作れるのではないかとも感じた。

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「Z世代のアメリカ」

三牧聖子先生の「Z世代のアメリカ」を読んだ。

高校1年のときにサンディエゴに、高校2年のときにデトロイトに、それぞれ短期留学した。その頃からアメリカ合衆国は、自分に複雑な感情を起こさせる存在となっていた。カリフォルニアでは温かく迎え入れられた。ミシガンでは1セント硬貨を投げつけられるなど露骨な差別を受けた。差別を受けても、優しくされれば嬉しくなるし、自分がもっと気の利いたことを言えれば認めてもらえるとか、語学や文化を学んで同等の「能力」を獲得することができれば、USAに受け入れてもらえるのではないかと信じて、もっと勉強しなくてはと自分を鼓舞していた。

対外政策における「アメリカ例外主義」とは、(1) アメリカは人類史において特別な責務を担っており、(2) 他国に対してユニークであるだけでなく、優越していることへの信念として定義され、より具体的には、(a) 堕落した「旧世界」ヨーロッパと対置される「新世界」アメリカという自負、(b) アメリカは歴史上のいかなる大国とも異なり、堕落や衰退の危険を免れ、革新的な国家であり続けられるという自信、(c) アメリカはその行動によって人類史を進歩に導かねばならないという使命感、として定義される。(p18)

いま思えば、高校生のときの自分もこのような「アメリカ例外主義」の雰囲気に飲まれて劣等感を持ち、追いつかねばならない特別な存在としてアメリカを意識し、その意識は社会に出てからもなんとなくそのままであったと思う。ロースクールに留学した時(2009年)も、アメリカのある意味で特別な部分を見ていたので、基本的な認識は変わらなかったような気がする。

アメリカのZ世代にとって、「豊かで強いアメリカ」は過去のものとの感覚だという。

アメリカは、人種差別や富の格差、脆弱な社会保障など、深刻な国内問題に向き合うことなく、アフガニスタンやイラクなど、世界各地で軍事行動に乗り出し、巨額のお金を浪費して、多くの人命を犠牲にしてきた。肥大化する軍事費は社会保障費を圧迫し、教育費は高騰を続ける。格差は拡大を続け、人種差別や憎悪に基づく暴力が蔓延している。この世代にとっては、国内に山積する問題にもがき苦しむ「弱いアメリカ」こそが現実なのである。(p4)

Z世代の目線を通さなくても、事実を客観的にみれば、アメリカの現状が膠着状態にあることは自明であるように思える。それでもアメリカに何らかの理想を見てしまうのは、自分が90年代に体験したこと、また当時の日本でのアメリカの受け止められ方(報道のされ方など)が影響しているのだろう。この数年の連邦最高裁の判断を見て、この国は本当に一筋縄ではいかないなと思い知らされた。

また印象的だったのは、中国のZ世代に関する調査結果のくだりで、

約1800人の中国人大学生を対象に、「グレートファイアウォール」を回避してインターネット状のどのサイトにもアクセスできるツールを無償で提供した。しかし、実に半数近くの学生がそのツールを使わなかった。彼らにとって、「グレートファイアウォール」やそれによって制限された言論空間は、外国発の偽情報から国や自分たちを守り、安全と安心を実現させるものですらあるのだ。(p98)

Civil Rights Movementが見直され、検閲する巨大国家が国際秩序を再構築しようとしている。ありふれた言い方になるが、明らかに歴史の転換点にいると感じる。しかし、自分にできることは何かあるのだろうか。

「Z世代のアメリカ」では、アフガニスタンで医療と灌漑事業に取り組み続けた中村哲医師の行動と言葉を紹介している。

私たちは、いとも簡単に戦争と平和を語りすぎる。(中略)世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかいう問題に煩わされてはいけない。それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人として最善を尽くすことではないかというふうに思っています。(p157)

あまりに大きすぎる現実を前にすると足がすくんでしまうとしても、自分の目の前にある小さな現実に対して最善を尽くすことはできる。それを積み重ねてきたのが、中村医師であり、Ruth Bader Ginsburg判事であった。「理想のアメリカ」に追いつくためではなく、小さな最善を尽くすために、やはり学び続けることが大切なのだと思う。

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戦略的コミュニケーションの在り方「世界の一流は「雑談」で何を話しているのか」

ずっと前に図書館に貸出予約をしていたピョートル・フェリクス・グジバチ「世界の一流は「雑談」で何を話しているのか」が、用意ができたというので借りた。正直、最近の自分は自己啓発系の本を読みたい気分ではなかったのだけど(しかも「世界の一流は…」とかいう名前の本を外で読むのは少し恥ずかしい。)、過去の自分が、どこかでこの本が良いという評判を聞きつけて予約していたのだろうから、せっかくなので読んだ。

「雑談」というと、「今日も暑いですね」とか「最近忙しいですか」とかそういう当たり障りのない会話が思い浮かぶけど、著者の言いたいところを自分なりに理解したところによれば、「雑談」は様々な目的を達成するためのワンステップとして貴重な機会であり、有効に使うことを心がけることで、積み重なって大きな成果を産むものになるということだと思った。

雑談を「自己開示」の場をして捉えることで、相手に対する自分の存在を意味付けることができる。相手を知ろうとする好奇心を持って相手の価値観、信念、期待に踏み込んだ質問ができれば、長期的なパートナーとして関係を築きたいという気持ちが伝わり、すぐには劇的な成果が得られないかもしれないが、関係が繋がっていくことになる。

振り返って自分が普段仕事でお客様などを迎え入れるときを考えてみると、ロジ面では割としっかりと準備するけれど、ソフト面というか、その人やその属するチーム、組織、業界、国などについて深く知って準備しておこう、という視点はあまりなかったように思われる。おそらく無意識のうちに、特に長期的な関係を築くことがあまり重要でないと考えていたのかもしれない。なんとなく仕事が「お仕事感」を帯びてくるのは、そこから生まれる人間関係が生み出すダイナミズムなどを信じられていないし、期待してもいないからだろうか。

スモールトークから始まって、本題に入るときにも、このインタラクションからどのような結果に繋げていきたいのかを意識すると、いろいろなコミュニケーションがもっと楽しく、生産的でワクワクするように思えてきた。いよいよ組織の雰囲気も前向きで明るいものに変わってきたし、ここはチャンスのように思えてきた。

あの人にこんな話をしようかとか、こういうふうに接してみようかとか、いろんな人の顔を思い浮かべながら読んだ。その人の名前や思い描いでいる会話の内容をここに書けないのが残念だけど、あれこれアイデアが浮かんだ。さっそく明日から、いろいろ試してみたいと思う。

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自分に付けている値段をアンラーンする「傲慢と善良」

やることが多すぎる。

集中力が高くて本質に迫った効率的な仕事ぶり。社交的で率直、誠実。家族を大切にする。トライアスロンもやっててストイックな努力家。好奇心旺盛で新しいこともたくさん知っている。とか。

そうだといいんだけど、そうじゃないんだ。なりたい自分を全方位展開すると、あまりにも「こうあるべき」がどんどん自分を縛り付けてきて苦しくなるんだ。

もう全部放り出してしまいたい。何かを変えたいけど、何を変えればいいのか分からない。何を優先して、何を捨てればいいのか分からない。

これは、少し前に自分が書いたメモだ。客観的にみると、いろいろなことが上手く回り始めており、どちらかといえば順調だ。これから良くなっていくことがたくさんあって、その中に自分もいて、それに貢献できているという実感もある。だけど、なんだかしっくりこなくて、焦りのようなものを感じる。もっと仕事をしなければ。もっと練習しなければ。もっと学ばなければ。朝起きると、今から始まる限られた十数時間のうちに何をしなければならないのか、頭の中がとっ散らかっていて、整理することができなくなっていた。

そんな感じで、その間もいくつかビジネス寄りの本を読んでいたのだけれど、なんかピンとこない感覚があった。その中でも、バリー・オライリーの「アンラーン戦略」は良書で、とりわけ、「大きく考えて、小さく始める」という基本的指針や、アンラーンと心理的安全性との関係はとても参考になり、自分の今後の学びの在り方や組織内での動き方を具体的に考えるいい課題を与えてくれたと思う。だけど、その「アンラーン戦略」を読んだ上での、冒頭の自分の心境である。「何を優先して、何を捨てればいいのか分からない。」というところから、「アンラーンせよ!」との命令に心理的抵抗を感じていることが分かる。

これは、いったん今の自分の動き方を止めて、全く違うことをした方が良いな、と思った。それで、東京ドームに行って外からBiSHの解散ライブの雰囲気を感じて、「やっぱアイドルって物語だよなー。」「推しが東京ドームで解散できるとか幸せだろうなー。」とか意味の分からないことを考えながら、しばらく読んでいなかったジャンルの本を読もうと思い、平積みされていた辻村深月さんの「傲慢と善良」(小説)など、普段は手に取らないであろう本を意識的に選んで買って帰った。

そして、この「傲慢と善良」が良かった。小説は、数か月前に当時売れていた小説を読んで心底がっかりして、しかもその本がその後「本屋大賞」にノミネートされたと聞いてますますゲンナリして以来、読んでいなかった。だから申し訳ないけど「傲慢と善良」にも特に期待はしていなかった。

でも、良かった。「傲慢と善良」は、大きくくくると恋愛小説ということになるけど、背後にあるのは「自己愛」と「値踏み」の心理だと思った。物語の中でこのようなセリフがあった。

「皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。傷つきたくない、変わりたくない。ー高望みするわけじゃなくて、ただ、ささやかな幸せが掴みたいだけなのに、なぜ、と。」

「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」

ああ、よく分かった。自分は、自分に「100点満点」を付けているのだ。だけど今の自分の周りにあるものが70点だと思っていたり、現在自分ができていることも70点だと思っていて、そのギャップが「ピンとこない」≒「しっくりこない」感じを生み出している。何もかも100点じゃないから落ち着かなくて、100点に近づくために努力し、これを獲得するのが「100点満点」の自分に相応しいのに、全てにおいて中途半端。きっと周りからもそう「値踏み」されているに違いない。

これは、全部自分の心の中の思い込みだ。周りからしてみたら、自分に何点を付けているかとか、その自己愛と、自他含めた現実の「値段」との釣り合いをどう考えているかとか、どうでもいい話だ。

こうして、「アンラーン戦略」と「傲慢と善良」とが繋がった。自分は「100点満点」の呪縛をアンラーンしたいと思う。より良く生きたいと思うことをやめるわけではない。期待されているかも分からないのに期待されていると思うのをやめる。本当に必要か分からないのに必要だと思うのをやめる。そして、いま自分が持っているものが「自分に釣り合うのか」などと考えて無駄にモヤモヤするのをやめる。そして、100点でなくてもいいから、ただ、自分がやりたいことをする。それで良いはずだ。これを、小さく始めよう。

小さく始めること。あなたが考えるよりも、もっと小さく。

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「苦しかったときの話をしようか」

同じ組織の異動とはいえ、新しい環境に飛び込んで2か月半が過ぎた。この2か月半は、本当につらく、無力感に苛まれた日々だった。同じタイミングで、子どもたちも自分の価値が信じられずに苦しんでいた。親として何もできないこともまた自分を苦しめた。

このタイミングで、森岡毅さんの「苦しかったときの話をしようか」を読むことができたことが奇跡のように思える。既にベストセラーとなって気になっていたが、なぜか読まずにいた。でも、本当に必要な時に出会うことができた。

「無力なサラリーマンである以上は『後ろ向きな仕事』は避けられない」(p240)。自分の強みや存在意義が曖昧なまま新しい環境に飛び込み、勝負できるところで勝負しなかったことがこの2か月半の敗因だった。「My Brand」、要は自分をどう定義し、言動を合致させて際立たせていくかの詰めは甘かった。それが業務にどう落ちていくかは考えたこともなかった。組織の中での自分の位置付け、今のところは「知財を愛し、知財に愛された男」という7年前に使ったフレーズのままだ(このように認知されていることは大変光栄なことでありがたい。でもここからさらに解像度を上げて価値を体現できる存在になることが必要だ。)。自分が大事にしたいのは、本質的(クリティカル)であること、知的好奇心に突き動かされること、革新的(イノベーティブ)であること、情熱的で周りを惹きつけることだ。自分の価値観と強みをもう一度見直して、その観点から自分の仕事を再定義した。私のお客様たち(きっと、うちの組織が6月以降どうなっていくのかとても気にしているはずだ。)が、この変化を認識することができるのに少なくとも半年はかかると思う。でもきっと感じていただけると思う。

「苦しかったときの話をしようか」は、森岡さんがご自身の娘さんに宛てたメッセージが元となっていて、暑苦しいぐらいの愛情が伝わってくる。「不安」に苛まれている我が子を見るとき、胸が締め付けられるように自分も苦しい。泣いているときには自分も泣きたかった。自分が代わってあげられたらどれだけ楽だろうか。毎日祈るような気持ちで見ていた。でも自分と子どもとは別人格で、自分の思うようにはならないし、自分がやってうまくいくことが同じように当てはまるわけでもない。そんなときに、「挑戦する君の『勇敢さ』と『知性』が強ければ強いほど、よりくっきりと映し出される『影』こそが、実は『不安』の正体だと理解しよう」(p267)とか、「小さな手で思い切り薬指を握ってくれたあの瞬間に、君の一生分の親孝行はもう十分に済んでいるのだから」(p294)とか、「君はきっと大丈夫だ!」(p295)とか、恥ずかしげもなくはっきりと伝えられることが眩しい。森岡さんの娘さんが、これを読んでどう思うのか分からないけど、父親がこれぐらいまっすぐでひたむきで、かつ自分を全肯定してくれたら幸せだろうなと思った。

この1週間ぐらい、完全に空気が抜けたようになっていて、これからどうすればいいのか、本当に分からなかったけど、森岡さんに勇気をもらって、ようやく前に進むことができそうだ。

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マインドフルネスを学び直す。「サーチ・インサイド・ユアセルフ」

横浜トライアスロンでは、スイムで顔をクラゲに刺されたのと、バイクで一周終えた時にGARMINをチラ見し、縁石に突っ込んで左腕をガードレールで擦りむいた。そして、レース翌日だったかにストレッチしていたら、ピキッといって肋骨周辺の筋肉を痛めてしまった。そんなわけで、レースが終わって、しばらくトレーニングができなくなってしまった。

それから、レース後に仕事に復帰したら、身体が疲れていたせいか、しょうもないミスを連発してしまった。また、ちょっとしたトラブルもいくつかあった。今日も、ボールペンをシャツに入れたまま洗濯してしまい、新しく買ったシャツにシミをたくさん作ってしまった。

こんな感じで、今週の自分は、けっこう精神的にユウウツだった。そうだったので、別の本を読んでいたのだけれど、方針転換して、チャディー・メン・タンの言わずと知れた「サーチ・インサイド・ユアセルフ」を棚の奥の方から引っ張り出してきた。この機会を利用してマインドフルネス瞑想を習得してしまおうと思ったのだ。

まずは意図を設定する。ストレスから自分を解放したい。ゆっくりと呼吸に注意を向ける。深呼吸する。身体の力が抜けていく。すぐに邪念が入り込んでくる。肩が上がり、体がこわばっていくのに気付く。肩をスッと下げてまた深呼吸をする。浮かんでくる自分の感情を遠くから俯瞰することができてくる。ここまでは平常運転、去年までも(例えば特定のお部屋に入る前の2分間を使うなどして)毎日行っていた。

改めて読み返してみると、本当に前回読んだのだろうかと思うような発見がたくさんある。以前読んだ時は、自分の心の平穏をもたらす方法のみを求めていたのだろうか。他者にマインドフルネスを向けるという感覚は全く自分の中になかった。「善良さ」を発見し、増やし、届けることができるという自信を育むという考えも、自分の中ではマインドフルネスとは結びついていなかった。

確かに、ストレスを持ち込んでくるあんな人やこんな人も、自分と全く同じで、体と心を持っていて、気持ちや情動、考えを持っていて、これまで、悲しみや落胆、怒ったり傷ついたりうろたえたりしただろう。身体的にも精神的にも、痛みや苦しみを味わってきただろう。痛みや苦しみから解放されたい、健康で人に愛され、充実した人間関係を持ちたい、幸せになりたいと願っているだろう。そうイメージすることができると、考え方も、見えるものも違ってくる。

善良さが滲み出ているような人は確かにいて、信頼できる。じゃあ自分がそうなれるのかというと、まだ分からない。考えてみたこともなかったからだ。でも、できるような気もする。信頼の相互作用が生み出す心地よさを、自分は何度も経験しているからだ。そして、その心地よさを知っているからこそ、今までの自分を変えて、信頼される人になりたいと思った。自分と人とを信頼できるように、その基本動作であるところの自己認識、マインドフルネスを日常に組み入れていきたい。

自己認識とは……情動の嵐のただなかにあってさえ、自己省察を維持できる、偏りのないモードのことだ。

ダニエル・ゴールマン

マインドフルネスとは、特別な形で注意を払うことを意味する。それは、意図的に、今の瞬間に、評価や判断とは無縁に、注意を払うことだ。

ジョン・ガバットジン

明日からも情動の嵐に晒されるだろう。不安はあるが、本を読み終えて自信が湧いた。自分は、情動の嵐とともに在り、何回か気は散るだろうが、最終的にはゆっくりと情動を手放す。そして、またひとり、大切な人と心を通わせることができるはずだ。

はやく身体が痛いの治って欲しいなー。

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脳を解放する。「超ミニマル主義」&「睡眠こそ最強の解決策である」

レースに出ている。なぜかマンハッタンの空中、曲がりくねった道を走っている。矢印が出て、次は壁の穴に潜れという指示だ。こんなのおかしい、別の道のはずだ!と思いコースを外れる。審判員が「失格です」という。「ですよね」と言ってガーミンを止めた。

これは今週見た「夢」の内容だ。実に後味の悪い寝起きとなった。横浜国際トライアスロンのレースを翌週末に控えているのと、ついこの前「スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー」を観た影響によりこうなっている。

だが問題はそこではない。最近、睡眠の質がとても悪い。それなりの時間を確保しているのに、中途覚醒したり、妙な夢を見て目が覚めたりで、起きた後も全身がぐったりと疲れている。もともと睡眠時無呼吸症候群を患っていて、CPAP治療をしている。寝つきが悪いのでいわゆる「眠剤」も服用している。その状態で、この3月までは順調に睡眠でき、朝はスッキリと目覚めて問題なかったのだ。

つまりこの「睡眠の質の低下」の原因はハッキリしている。「ストレス」である。

さて、このブログを始めて毎週更新することを目指していたが、ついに先週、更新を途絶えさせてしまった。なぜだろうか。それはこの間に読んだ本からの学びを、自分の中にインストールするに至らなかったからである。読んだ本は2冊で、マシュー・ウォーカー「睡眠こそ最強の解決策である」と、四角大輔さんの「超ミニマル主義」である。

どちらも、書いてあることはシンプルだ。人類が、進化の過程で「睡眠」を手放さなかったのは、それこそが人を人たらしめる知識と創造力の源泉だからだ。だから睡眠を削って働くなどナンセンスというほかなく、生活そのものを、十分な時間、良質な睡眠を得るために設計し直す必要がある。そして、働くこと、生きることをより幸せにし、充実させるためには、聖域を作ることなく、無駄なものを徹底的に削ぎ落として、本当に必要なものに全てのリソースを投入するように自分の在り方を変えていく必要がある。そういうことだ。

先週の時点で文字にできなかった理由はこうだ。4月から1か月間の自分の生活は、上記の在り方とは全く逆だった。訳の分からないしきたりがある。誰もそれを打ち壊そうとしない。そういうものだと諦める。その訳の分からないもののために意味のない作業をする。意味のあること、自分がしたいと思うことをする時間がなくなる。午後5時を過ぎても残らなくてはならなくなる。充実感を持てないまま、前に進んでいるという感覚を掴めないまま帰る。責任の重さが背中にのしかかってくる。時間に追われている。明日は早く起きて早く出社し、作業のための時間を確保しようか。しかし、起きられない。起きても疲労感が抜けていない。体が重い。レース間近なのに練習の時間も確保できない。胃が痛い。この状態のまま、ゴールデンウィークに突入した。さあ、君にとって「睡眠こそ最強の解決策である」。

無理というものだ。睡眠が大切だなんて痛いほどわかっている。記憶力も高まる、健康にもなる、創造力が磨かれる。それはそうなんでしょうね。でもこっちは新しい環境と自分の精神とが不協和音を起こして、脳の中で真夜中もゴチャゴチャごちゃごちゃやっている。いくら午後9時にベッドに入って午前7時に起きることとしても音が止むことがないのだ。

というわけで、こんな状態では到底本から学びを得たとはいえなかったので、先週は何も書けなかった。

そして連休後半を迎えた。休日出勤はしないことにした。自分自身をアップデートするためだ。

ミニマリストになるわけではない。でも、自分も、四角大輔さんが教えてくれたように、スケジュールとタスクを軽量化し、思考と習慣を軽量化すると決めた。ただ漫然と作業をするのは止める。本当にやるべきことは最大限集中力を研ぎ澄ませて終わらせる。意味の無いことはしない。やると決めたことは心血を注いでやり切る。無駄な残業はしない。ベッドに入る前にストレスから脳を解放する。そして、「最強の解決策」であるところの睡眠を死守する。もう、そうすることに決めた。

月曜日から現実が待っている。「機能不全を起こしている職場の常識」を、すぐに捨て去ることなどできないだろう。でも、自分は、納得できないことをするためにここに来たのではないはずだ。自由に楽しく、価値ある仕事をする。周りもその楽しさに巻き込んでいく。今日もいい仕事ができたと実感しながら眠りにつき、ワクワクするような朝を迎える。きっとできるはずだ。

週末のレースに向けて、バイクメンテしてきました。サーヴェロさん今回も頼りにしてる!

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