今週は、知財業界に身を置く人にとっては話題の多い週だった。金曜日には、新特許法により導入された第三者意見募集制度も使われた知財高裁特別部の大合議判決(コメント配信システム事件)がされた。土曜日には、「メタバースにおける著作権」をテーマとした著作権法学会の研究大会が4年ぶりに一橋記念講堂(対面・オンライン併用)で行われた。今週の出来事ではないが、アンディ・ウォーホルの作品に関するアメリカ連邦最高裁の判断もあった。そんな感じで、知財関係のいろんな人が、いろんな見解を述べているのをオンライン、オフラインを問わずに見聞きすることができた。
それで、いま自分が端的に感じているのは、「くやしい。」ということだ。まだこの職場に来て2か月しか経っていないから、当たり前といえば当たり前なのだが、自分は、これらのすべての動きについて全部「傍聴人」にすぎなかったわけだ。自分がその中で何かの役割を担っているわけではないし、議論に混じることもできない。意見を表出できるほど学んでいないし、考え抜いてもいない。そして、胆力が違う。大合議に関わった実務家(裁判官、弁護士、意見募集に応じて意見を提出した方々)や、学会に登壇した方々(今回は実務が大きく関わるトピックだったので、研究者のほか、事業会社や弁護士からの登壇者があった。)を間近で見たのに、みんな、自分とははるか遠くにいるような気がした。広い意味では同じ業界に身を置いているのに、視点の高さがまるで違うと感じた。
なぜこのような違いが生まれるのか。所属している組織、ポジションが違うのはもちろんあるけど、いろいろ考えた結果、結局は「コミットする意識」の違いにあるのではないか、と感じた。事業、法的アドバイス、自説、判断と形の違いはあれど、自分の名前と責任において成果物を出すという意識、その目的に従った学び、準備といった姿勢が、自分にはまだ全く足りない。いまはただの「知財ファン」であり、「プロ」はおろか、「オタク」「マニア」の領域にも達していないということだ。
この2か月間、必死に仕事に食らいついてきたつもりだったが、ひとつひとつの動きやインプット・アウトプットがクリティカルであったかと問われると、はなはだ心許ない。そもそも何との関係でクリティカルである必要があるのか、自分の目的、目指すべきところの解像度が低すぎる。そのせいで、せっかくたくさん流れてくるありがたい情報は右から左に抜けていく。目標らしきものは設定されるが、それが全体との中でどのように位置付けられるのかの認識が甘いので、ただその目標を「こなす」ことが最優先となり、成果としての「すごみ」に乏しいものとなる。これを打破するには、目の前のタスクの処理に追いまくられている状態から一旦離脱して、自分のミッション、ビジョン、バリュー、パーパスを深掘りすることが必要で、自分は、まさにいま、その時にあるということだ。
「この職場でできることは全てやり遂げる。」これが現在の自分を支えている指針だけど、今日から、これをもっと分析して、展開して、具体的に落としこんでいく。これからの数週間は、そのための学びを深めていくつもりだ。
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