機会が重なって、小説を三冊連続で読んだ。読んだのは、浅倉秋成「六人の嘘つきな大学生」、安壇美緒「ラブカは静かに弓を持つ」、杉井光「世界でいちばん透きとおった物語」の三冊。
「世界でいちばん透きとおった物語」は、アイデアの勝利という感じで、「六人の嘘つきな大学生」は、よく作り込まれたトリックアートだと感じた。
「ラブカは静かに弓を持つ」は、上の二作品と比べると、驚きの要素が少なく、なんとなく腑に落ちなかった。でも、時間が経ってよく振り返ってみると、なかなかに深みがあるように思えてきた。物語は、簡単にいうと、音楽教室事件を題材としたもので、JASRACを模した団体の従業員が、ヤマハを模した音楽教室に潜入してレッスンを受けていく中で、人と音楽との触れ合いを通じてその心が変わっていく様子を書いたものだった。
題材的にどうしても職業的な目が入ってきてしまうが、よく調べられていて違和感がなかった。文章、言葉選びが繊細で、音楽の厚みをとても綺麗に表現できている。感情の描写も良く、前半はテンポもよく、前半の最後でグッと引き込まれてカタルシスへと到達した。
これはなかなか、と思い、期待しながら一気に読んだけれど、読み終わってみると、なにか物足りない。これは期待はずれだったのかな、と思ったのだけれど、なぜかモヤモヤしたので、この「物足りなさ」について、少し時間をとって考えてみた。レビューをみると、同じように、前半の勢いが後半になく物足りなさを感じた、という人がいた。主題が身近すぎるために感情移入しにくかったのかもしれない。ややJASRACサイドの描かれ方が辛かったために公平に欠けるという職業病的判断をしたのかもしれない。いろいろと考えた。
で、今のところの落ち着きとしては、「でも人生ってそういうものなのかも」というものになった。ひとが変わっていくときの変化は、多面的に、また時間差をもって起こり得る。例えば自分の心境にもたらす変化は、まずは小さな環境の変化から少しずつその土台が形成されていき、ある日突然堰を切るように感情を圧倒するような出来事、出来事でなくとも内的体験があったりして、決定的な変化がやってくる。でも、この変化は周りからは見えなかったりして、日常としてはいつもと変わらないごく普通の日々が続いたりする。それでも、自分の中は確実に変化しているから、これに導かれてその日常も少しずつ変化していく。それは、周りの人を巻き込みながら、心の変化とは違った歩みで徐々に進んでいく。もしかすると、心の変化ほどには劇的でなく、「物足りない」かもしれない。だけどそれも「変わっていくプロセス」の一部なのではないか。「じぶん時間を生きる」を読んだとき、「トランジション」は段階的に起こる、という学びがあったけれど、似ているのではないか。後半の「物足りなさ」は、変化した心を実現していく過程が、自分の心と現実との折り合いをつけながら過ごしていく一日一日そのものであって、目を引くような大事件だったりはしないからということなのかもしれない。それはとてもリアルで、そういう意味で「劇的」ということができるかもしれない。
もう少し進めて考えてみると、変化を起こすのは、いつでも、どこからでも行って良いのではないか、と思った。ちょっとだけ心の中に留めておくだけでも良い。お金を払って何かを買ったり、申し込んでみるのも良い。一日五分の習慣を初めてみるのも良い。思い切って新しい集まりに参加してみても良い。ものの進め方を少しだけ前向きに変えてみても良い。どこからでも変化は起き得て、そのスピード感やインパクトはそれぞれ異なる。それがたとえ「物足りない」ようなものであったとしても、時間が経ったり、思わぬシナジーが起きたりして、気がついたら大きく景色が変わっているかもしれない。
感情を大きく揺さぶるような音楽もあれば、BGMのように日常に寄り添うような音楽もある。「ラブカは静かに弓を持つ」の中にも様々な音楽が、文字を通じて流れている。それが「物足りなさ」という違和感を残し、ちょっとした気づきを与えてくれた。好きな作品だ、と思った。