ありがたいことにボーナスをいただいたので、住宅ローンのボーナス払いのために、給与振込口座から住宅ローン引落口座にお金を移動させる必要があった。165円の送金手数料を惜しんだ自分は、銀行のATMで現金**万円を払い戻して、それを封筒に入れ、その封筒をコートの胸ポケットに入れた(はずだった)。そして、100メートルほど離れた別の銀行のATMに到着し、カードを入れて、コートの胸ポケットに手を入れた。
…封筒がない。
後ろにATMの順番待ちをしている人がいたので、急いで「取引中止」を押してカードを回収し、歩いてきた道を走った。白い物が落ちているのを見たが、残念ながら「レジ袋」だった。右下、左下と交互に視線を走らせ、銀行までの道を更に走った。封筒は落ちていない。ATMコーナーに入って周りを見ても、ない。文字どおり青ざめた。つい15分ぐらい前には、PayPay払いで高率のポイントバックがあって得したなー、とか思っていたのだ。今やそれとは比べ物にならないほどの金額を失っている。
警察に電話したら、すぐに近くの交番に届けてくれと言われた。でも自分は交番ではなく走って警察署に行った。今ならその理由が分かる。俺の現金を拾ってそのまま持ち去った奴がいる。捜査してそいつを捕まえて欲しい。自分は、世界をそのように見ていた。多額の現金が落ちていたら、それを自分のものにする社会。昔の日本では落とした物も返ってきたけど、今は違う。もうそんな社会じゃないんだ。ああ、明日のトライアスロンの練習に行くような気分になれないな、そもそもお金がかかるからトライアスロン自体を止めようかな、家族になんて話したらいいのか、本を買って勉強することもできないな、そもそも勉強したって給料上がらないじゃないか一体何のためにやっているんだろう…
「今のところ落とし物の記録はないですね。捜査ですか?犯罪の可能性というか、事件性みたいなのがないと…。防犯カメラを見てもらって、それらしき人が写ってたりとかね。あ、でも明日は銀行休みだから月曜日にならないと確認できないね…」
「そうですよね。私もそういうのに関係ある仕事しているので分かります。いちおう占有離脱物とかで…」なんて言えなかった。自分の見ている世界では、かなりの確率で拾った人を特定できないし、たとえ現金を拾った奴を捕まえても、もうそいつはその現金を使い込んでいて、返済する資力はないのだ。
警察官から慰められるような言葉をいくつか掛けられた後、もう一度だけ銀行から銀行までの道のりを歩いて封筒を探した。もちろんない。銀行の前に若い二人が楽しそうに話している。とても醜いことだが、この二人を疑ってしまった。今頃この二人は、予想外の収入に喜んでテンションが上がっているのかもしれない。なにも声を掛けられないでいるうちに、二人は自転車で別々の方向に去っていった。
もうダメだ。家族に正直に話して少しだけこれからの節約をお願いしよう。最後に、銀行の近くの交番に行ってみて、そこに届いてなければ諦めて帰ろう…
はたして。
その交番には、警察官と、60代くらいの男性一人とがいて、カウンターの上には見覚えのある封筒があった。
「あの…お金の入った封筒の落とし物はありませんでしたか…」
と聞くと、警察官と男性とがビックリして顔を見合わせた。そして、その男性の方が、
「ほら!やっぱり!年末だから困ってるだろうと思ったんだよ!よかったな!家族には話したのか?大変だったよな!年の瀬だからさ!よかった!よかった!」
って大きな声で、でも優しく、ニコニコしながら一方的にどんどん話してきた。そして、お礼をしたい、と言ったのをキッパリと断って、書類をさっさと書いて、「俺へのお礼は要らない。代わりに、年末はいろんなところで募金運動してるから。1000円でもいいから募金してあげて。」と言って、颯爽と帰っていってしまった。
僕は泣いてしまった。もちろんお金が見つかったから嬉しかった。思いがけず人の優しさに触れた喜びもあった。でも、涙の内訳は複雑だった。世界を見る自分の眼が曇っていることを痛烈に思い知らされたのだ。
「俺にお礼をするぐらいならそのお金を募金に使え」と言われたときに思い起こしたのは、昔の映画「ペイ・フォワード」だ。与えられたものにお返しをする代わりに、それを自分の誰かに与え、その輪が広がっていく。さらに、自分はこの頃、偶然にも近内悠太「世界は贈与でできている–資本主義の「すきま」を埋める倫理学」を読んでいた。そこに書いてあったことを自分なりに要約するとこうなる。
対価性を要求しない「贈与」は、宛先に届くことを待つ、届かないかもしれないけれども届くことに賭けてみるという倫理的な行動である。それは「祈り」に似ている。贈与は過去に既に差し出され、届いていることもあるが、受取人がそれを受け取るには、それが「贈与であった」ことに気付くための「知性」が求められる。語られることのない「アンサング・ヒーロー」たちがしてきた無数の贈与の上に、現在の世界が成り立っている。そのことに気付いた者は、「アンサング・ヒーロー」からの贈与を受け取ることができ、その返礼として、再び、この社会を見えないところで支える主体となることができる。贈与は与え合うものではなく、受け取り合うものである。
自分は、お金を落とさなければ、この社会が「アンサング・ヒーロー」たちの贈与によって支えられていることに気付くことができなかった。どれだけ、人の優しさ、暖かさ、熱意、誠実さ、愛情、正直さ、尊厳、祈りに目を向けようとしていただろうか。人の、社会のイヤなところを敢えて見つけ出して、嘆くだけの人間になっていたのではないか。あたかも自分はそのような醜さとは無縁であって、自分だけの力で生きていると傲慢にも勘違いしていたのではないか。情けなくてどうしようもない気持ちになった。
どうしようもない気持ちになったのだけれど、今からでも「贈与」することはできる。贈与を受け取ることもできる。1000円を募金し、これからは、自分たちがどれだけの「贈与」を受けてきたのか気付いていけるようになりたいし、それができるだけの知性を身に付け、人と社会を見る眼を養うために、学び続け、内省し続ける人でありたいと思った。
あと、そもそも現金を落としたりしないように、ちゃんと頭と身体のメンテナンスを怠らないようにしないと。忙しいのを言い訳にしているようじゃダメだぞ。