三牧聖子先生の「Z世代のアメリカ」を読んだ。
高校1年のときにサンディエゴに、高校2年のときにデトロイトに、それぞれ短期留学した。その頃からアメリカ合衆国は、自分に複雑な感情を起こさせる存在となっていた。カリフォルニアでは温かく迎え入れられた。ミシガンでは1セント硬貨を投げつけられるなど露骨な差別を受けた。差別を受けても、優しくされれば嬉しくなるし、自分がもっと気の利いたことを言えれば認めてもらえるとか、語学や文化を学んで同等の「能力」を獲得することができれば、USAに受け入れてもらえるのではないかと信じて、もっと勉強しなくてはと自分を鼓舞していた。
対外政策における「アメリカ例外主義」とは、(1) アメリカは人類史において特別な責務を担っており、(2) 他国に対してユニークであるだけでなく、優越していることへの信念として定義され、より具体的には、(a) 堕落した「旧世界」ヨーロッパと対置される「新世界」アメリカという自負、(b) アメリカは歴史上のいかなる大国とも異なり、堕落や衰退の危険を免れ、革新的な国家であり続けられるという自信、(c) アメリカはその行動によって人類史を進歩に導かねばならないという使命感、として定義される。(p18)
いま思えば、高校生のときの自分もこのような「アメリカ例外主義」の雰囲気に飲まれて劣等感を持ち、追いつかねばならない特別な存在としてアメリカを意識し、その意識は社会に出てからもなんとなくそのままであったと思う。ロースクールに留学した時(2009年)も、アメリカのある意味で特別な部分を見ていたので、基本的な認識は変わらなかったような気がする。
アメリカのZ世代にとって、「豊かで強いアメリカ」は過去のものとの感覚だという。
アメリカは、人種差別や富の格差、脆弱な社会保障など、深刻な国内問題に向き合うことなく、アフガニスタンやイラクなど、世界各地で軍事行動に乗り出し、巨額のお金を浪費して、多くの人命を犠牲にしてきた。肥大化する軍事費は社会保障費を圧迫し、教育費は高騰を続ける。格差は拡大を続け、人種差別や憎悪に基づく暴力が蔓延している。この世代にとっては、国内に山積する問題にもがき苦しむ「弱いアメリカ」こそが現実なのである。(p4)
Z世代の目線を通さなくても、事実を客観的にみれば、アメリカの現状が膠着状態にあることは自明であるように思える。それでもアメリカに何らかの理想を見てしまうのは、自分が90年代に体験したこと、また当時の日本でのアメリカの受け止められ方(報道のされ方など)が影響しているのだろう。この数年の連邦最高裁の判断を見て、この国は本当に一筋縄ではいかないなと思い知らされた。
また印象的だったのは、中国のZ世代に関する調査結果のくだりで、
約1800人の中国人大学生を対象に、「グレートファイアウォール」を回避してインターネット状のどのサイトにもアクセスできるツールを無償で提供した。しかし、実に半数近くの学生がそのツールを使わなかった。彼らにとって、「グレートファイアウォール」やそれによって制限された言論空間は、外国発の偽情報から国や自分たちを守り、安全と安心を実現させるものですらあるのだ。(p98)
Civil Rights Movementが見直され、検閲する巨大国家が国際秩序を再構築しようとしている。ありふれた言い方になるが、明らかに歴史の転換点にいると感じる。しかし、自分にできることは何かあるのだろうか。
「Z世代のアメリカ」では、アフガニスタンで医療と灌漑事業に取り組み続けた中村哲医師の行動と言葉を紹介している。
私たちは、いとも簡単に戦争と平和を語りすぎる。(中略)世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかいう問題に煩わされてはいけない。それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人として最善を尽くすことではないかというふうに思っています。(p157)
あまりに大きすぎる現実を前にすると足がすくんでしまうとしても、自分の目の前にある小さな現実に対して最善を尽くすことはできる。それを積み重ねてきたのが、中村医師であり、Ruth Bader Ginsburg判事であった。「理想のアメリカ」に追いつくためではなく、小さな最善を尽くすために、やはり学び続けることが大切なのだと思う。