やることが多すぎる。
集中力が高くて本質に迫った効率的な仕事ぶり。社交的で率直、誠実。家族を大切にする。トライアスロンもやっててストイックな努力家。好奇心旺盛で新しいこともたくさん知っている。とか。
そうだといいんだけど、そうじゃないんだ。なりたい自分を全方位展開すると、あまりにも「こうあるべき」がどんどん自分を縛り付けてきて苦しくなるんだ。
もう全部放り出してしまいたい。何かを変えたいけど、何を変えればいいのか分からない。何を優先して、何を捨てればいいのか分からない。
これは、少し前に自分が書いたメモだ。客観的にみると、いろいろなことが上手く回り始めており、どちらかといえば順調だ。これから良くなっていくことがたくさんあって、その中に自分もいて、それに貢献できているという実感もある。だけど、なんだかしっくりこなくて、焦りのようなものを感じる。もっと仕事をしなければ。もっと練習しなければ。もっと学ばなければ。朝起きると、今から始まる限られた十数時間のうちに何をしなければならないのか、頭の中がとっ散らかっていて、整理することができなくなっていた。
そんな感じで、その間もいくつかビジネス寄りの本を読んでいたのだけれど、なんかピンとこない感覚があった。その中でも、バリー・オライリーの「アンラーン戦略」は良書で、とりわけ、「大きく考えて、小さく始める」という基本的指針や、アンラーンと心理的安全性との関係はとても参考になり、自分の今後の学びの在り方や組織内での動き方を具体的に考えるいい課題を与えてくれたと思う。だけど、その「アンラーン戦略」を読んだ上での、冒頭の自分の心境である。「何を優先して、何を捨てればいいのか分からない。」というところから、「アンラーンせよ!」との命令に心理的抵抗を感じていることが分かる。
これは、いったん今の自分の動き方を止めて、全く違うことをした方が良いな、と思った。それで、東京ドームに行って外からBiSHの解散ライブの雰囲気を感じて、「やっぱアイドルって物語だよなー。」「推しが東京ドームで解散できるとか幸せだろうなー。」とか意味の分からないことを考えながら、しばらく読んでいなかったジャンルの本を読もうと思い、平積みされていた辻村深月さんの「傲慢と善良」(小説)など、普段は手に取らないであろう本を意識的に選んで買って帰った。
そして、この「傲慢と善良」が良かった。小説は、数か月前に当時売れていた小説を読んで心底がっかりして、しかもその本がその後「本屋大賞」にノミネートされたと聞いてますますゲンナリして以来、読んでいなかった。だから申し訳ないけど「傲慢と善良」にも特に期待はしていなかった。
でも、良かった。「傲慢と善良」は、大きくくくると恋愛小説ということになるけど、背後にあるのは「自己愛」と「値踏み」の心理だと思った。物語の中でこのようなセリフがあった。
「皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。傷つきたくない、変わりたくない。ー高望みするわけじゃなくて、ただ、ささやかな幸せが掴みたいだけなのに、なぜ、と。」
「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」
ああ、よく分かった。自分は、自分に「100点満点」を付けているのだ。だけど今の自分の周りにあるものが70点だと思っていたり、現在自分ができていることも70点だと思っていて、そのギャップが「ピンとこない」≒「しっくりこない」感じを生み出している。何もかも100点じゃないから落ち着かなくて、100点に近づくために努力し、これを獲得するのが「100点満点」の自分に相応しいのに、全てにおいて中途半端。きっと周りからもそう「値踏み」されているに違いない。
これは、全部自分の心の中の思い込みだ。周りからしてみたら、自分に何点を付けているかとか、その自己愛と、自他含めた現実の「値段」との釣り合いをどう考えているかとか、どうでもいい話だ。
こうして、「アンラーン戦略」と「傲慢と善良」とが繋がった。自分は「100点満点」の呪縛をアンラーンしたいと思う。より良く生きたいと思うことをやめるわけではない。期待されているかも分からないのに期待されていると思うのをやめる。本当に必要か分からないのに必要だと思うのをやめる。そして、いま自分が持っているものが「自分に釣り合うのか」などと考えて無駄にモヤモヤするのをやめる。そして、100点でなくてもいいから、ただ、自分がやりたいことをする。それで良いはずだ。これを、小さく始めよう。
小さく始めること。あなたが考えるよりも、もっと小さく。