「知ろう」という思いを放棄することに、アルキメデスは全力で反発した。彼の仕事は、「世界は知ることができる」という信念の表明であり、そして同時に、自らの無知に甘んじ、自分には理解できないものを無限と呼び、自分以外の誰かに知を委託する人びとにたいする、決然たる異議申し立てでもある。(304p)
カルロ・ロヴェッリの「すごい物理学講義」を読んだ。読後感を表現するのが難しい。というのも、「物理学講義」と題されたこの本を読み終えた今となっても、自分はこの本で説明されているテーマを、おそらくは1%さえも理解できていないからだ。
古代ギリシャからニュートン、ファラデー、アインシュタインまでは、どんどん読み進められた。量子力学あたりから雲行きが怪しくなってきており、後半になってくると1ページに数分掛けないと先に進まなくなった。そして読み終えたが、やはり理解できていない。だが理解できたこともある。物理学がとても奥深く、興味深く、これをもっと知りたいと自分が望んでいるということだ。
わたしたちはなにも、巨人たちの背丈に追いつこうとあがくことはない。そうではなく、後世に生まれた利点を活用して、巨人たちの方に腰かければよいのである。そのとき、わたしたちは巨人たちより、さらに遠くを見ようと試みるだろう。どのような手段を選ぶにせよ、わたしたち人間は、試みずにはいられない生き物だから。(274p)
上記の引用は、よく、先人の知恵の上に私たちが立っており、そこにさらに知を重ねていくということで、学ぶことの価値を説く際によく引き合いに出されるアナロジーであるが、この本が初出だろうか(追記:自分の無知を恥じねばならないが、初出はアイザック・ニュートンだ。)。いずれにしてもお気に入りの表現である。「進撃の巨人」が大好きな自分にとっては尚更である。
兆候と証拠を分けて考えることが重要である。(中略)正しい理論に向かって、正しい道を進むためには、兆候が必要である。発見された理論が本当に優れたものかどうかを判断するには、証拠が必要である。兆候がなければ、わたしたちは間違った方向に進むだろう。証拠がなければわたしたちはいつまでも疑念を抱き続けるだろう。(275p)
兆候と証拠に関する上記の記述は、事物を把握し、見えない事実を探っていく際の姿勢として参考になる。証拠偏重主義にどのようなリスクがあるのか、直感と証拠の関係は何かなど、新たな問いかけをもらったと感じる。
わたしたちが知っていることや、知っていると信じていることは、正確さを欠いていたり、間違っていたりする可能性がある。知の限界の自覚とは、こうした可能性の自覚でもある。自分たちの見解に疑いをもてる人間だけが、その見解から自由になり、より多くを学ぶことができる。思考の内奥まで根を張っている見解さえ、ときには間違っていたり、あまりにも単純だったり、いくぶん検討はずれだったりする。なにかをより深く学ぶには、勇気をもってこの事実を受け入れなければならない。(339p)
最近、科学に関する本を読むことが多いが、科学に携わる人のほとんどが、上記のような立場、すなわち、自らの考えや常識を疑い、そこから自由になることにより新たな発見に到達していこうとする姿勢の重要性を強調している。まさに「無知の知」ということだが、「すごい物理学講義」では、時間や空間、無限といった、私たちが当然にその存在を前提としていた概念すらも、貨幣と同じように単なる社会的コンセンサスにすぎず、その前提を疑って新たな知を切り拓いていった勇気ある先人たちの挑戦がドラマティックに記述されている。
主題の内容が理解できないのにこの本が自分の心を躍らせてくれるのは、科学者たちが知のフロンティアに挑み続ける姿勢に共感し、励まされるからであって、自分は科学者ではないが、もっと知らないことを知りたい、常識と考えられているものを疑い、世界の見方をアップデートしていきたいという気持ちが湧き出てくるからである。